そして、昨日のコメントに、「諫鼓鶏の尾の色の話は『集英社新書ヴィジュアル版・謎解き広重「江戸百」 原信田実』の78ページ~82ページに載っています。」と書いてくれました。
そこで、今日は、山王祭の山車の鶏の羽根について書きます。
ツユクサさんのコメントの通り、「謎解き広重『江戸百』」には、
「描き違いという問題でいえば、猿鶏の順番だけでなく、諫鼓鶏の羽根の色も違っている。山王祭は五彩で、白は神田祭である。」 と書いてあります。
詳細は「謎解き広重『江戸百』」を読んでいただきたいと思いますが、簡単に書くと次のようになります。
右下の「名所江戸百景」のうちの「糀町一丁目山王祭ねり込み」を見てください。
右の絵には、中央真ん中と左手に山車が描かれています。
中央の山車は小さくてはっきりみえませんが、猿が載っている山車です。
左手は鶏の山車です。
「謎解き広重『江戸百』」では、この絵に間違いが二つあると言っています。
一つは南伝馬町の猿の山車が先頭をいっているということ、二番目が、大伝馬町の山車の鶏の羽根の色が白になっているということです。
山王祭の山車行列は1番が大伝馬町、2番が南伝馬町と決まっていました。
そして、神田祭でも、この大伝馬町と南伝馬町は1番と2番と決まっていました。
1番目の大伝馬町の山車は「諫鼓鶏」の山車で、2番目の南伝馬町の山車が「猿」の山車でした。
大伝馬町と南伝馬町は、両伝馬町とも言われ、伝馬役を担っていた町です。
江戸では、江戸城の大手門近くに、日本橋大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町が存在していました。
大伝馬町と南伝馬町は、江戸府内から五街道にかかる人足,伝馬の継立てを行うという道中伝馬役を負担し、江戸府内の公用の交通,通信に従う江戸廻り伝馬役を小伝馬町が負担していました。
大伝馬町の名主は馬込勘解由で、南伝馬町は高野新右衛門でした。
この二人は、徳川家康が江戸に入府する際に、駄馬人足を従えて迎えたという言い伝えのある草創名主でした。
このように、大伝馬町と南伝馬町は由緒ある町であることから、山王祭と神田祭の両方に、1番.2番の山車を出したものと思われます。
なお、この二つの町が山車を出すにあたっては、2代将軍秀忠の指示によるという話があります。
この大伝馬町の山車がいわゆる「諫鼓鶏」です。
「諫鼓」とは、中国の伝説上の3人の君主である堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)が、その施政について諌言しようとする人民に打ち鳴らさせるために、朝廷の門外に設けた太鼓です。
3人の君主は、善政を行ったので、諫鼓は鳴ることもなく長い年月の間に苔むして、鶏の遊び場となっていたといいます。
つまり諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっているということです。
「諫鼓鶏」は、まさに「天下泰平の象徴」です。
この「諫鼓鶏」が大伝馬町の山車だったのです。
そして、「諫鼓鶏」の羽根の色が、山王祭では、赤青黄白黒の五彩で、神田祭では白として区別されていました。
従って、羽根の色を見れば、どちらの祭かが区別できました。
また、正徳4年には、根津権現の祭礼「宝永祭」が執り行われていますが、この際の羽根の色は黒でした。
神田明神の資料館には、諫鼓鶏の山車の模型があります。
こちらは、神田祭ですから、当然ながら、諫鼓鶏の羽根の色は白です。
なお、2番の南伝馬町の猿の山車の場合は、烏帽子と御幣の色が異なっていて、山王祭では銀色の烏帽子で銀色の御幣、神田祭では金色の烏帽子で金色の御幣、宝永祭では黒烏帽子で白色の御幣となっていました。
さて、今度の土曜日28日には、江戸楽アカデミーの講座の2回目があります。
今回も、講座終了後、情報交換会(飲み会)を次の要領で開催します。
情報交換会 開始時間 22日午後4時より、
場所 「銀座ライオン竹橋店」
会費 4千円
情報交換会は、江戸検を受ける方たちで、情報を交換し、知恵を交換し、元気を交換しようということで設定しています。
22日の情報交換会は20名ほどの方にご参加いただきましたが、常連コメンテーターの悪代官様から『参加者が少なすぎる』とおしかりをいただきました。(ちょっとジョークですが・・・。悪代官さん、ごめんなさい)
そこで、28日の講義を受けられる皆様に事前にお知らせします。
28日の講義を受けられる皆様、情報交換会までご予定いただき、是非ご参加ください。