江戸楽アカデミーでは、「天下祭」についてもお話をし、その中で、山王権現(現在の日枝神社)についてお話をしましたし、明日もお話する予定です。
しかし、山王権現が、徳川将軍家の産土神となった由来については、あまりゆっくりお話する時間がありません(でした)ので、ブログに書いておきます。
山王権現(現在の日枝神社)は、文明10年(1478)太田道灌が江戸城を築城するにあたり、江戸城鎮護の神様として川越山王社(現在の日枝神社)を勧請したと言われています。
日枝神社・日吉神社・山王神社などの総本宮は、近江坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)です。
従って、江戸の山王権現も、坂本の日吉大社から勧請されたものと思いがちですが、江戸の山王権現は、川越から勧請されたものです。
しかし、このことはあまり知られていないかもしれません。
川越の日枝神社は、喜多院の山門の前に鎮座しています。(右上写真は今年の初詣の時の写真)
その日枝神社の道路脇のよく見える場所に、「東京都千代田区赤坂にある日枝神社の本社です」と書かれた右のような看板が建てられていて、このことを多いに宣伝しています。
なお、赤坂は港区なので、千代田区赤坂というのは間違っていると思いますが・・・
そして、徳川家康が、江戸に入府した際に、山王権現を将軍家の産土神としました。
その際のエピソードが、「徳川実紀」に載っているというので、徳川実紀を調べてみました。
すると、確かに、「東照宮御実紀付録卷六」に載っています。
それを、そのまま書き写すと下記の通りとなりますので、詳細を知りたい方は、下記をご覧ください。
前半の肝心な部分を私なりに現代文に訳すると次のようになります。
徳川家康が、江戸に移った頃、榊原康政を呼んで、江戸城内に鎮守の神様はないかと聞きました。それに対して、榊原康政が「北の郭に、小さなお社が二つありますが、それが鎮守の神様でしょう、ご覧ください」と言ってご案内しました。
榊原康政の案内で行ってみると、小さな坂で梅の木が植えてある中に二つのお社がありました。
家康は、一つは天神様のようだと判断しました。
そして、もう一つのお社を見ると、徳川家康は即座に拝礼し、「康政よ、不思議なことがあるもんだな。私は、江戸城に鎮守の神様がなければ、近江坂本の山王権現を勧請しようと思っていたが、不思議な縁で、ここに山王権現が鎮座されているよ」と言いました。
榊原康政が、平伏して「不思議なことですが、これは当家が繁栄する瑞祥だと思われます」と申し上げると、家康は大変うれしそうなご様子でした。
(以下、省略します。)
江戸時代中期の国学者柏崎永以が延享3年からか書き始めた「事跡合考」という本にも同様な内容の記述がされています。
皇居東御苑には、現在も梅林坂があり、梅の木がたくさん植えられています。(右写真)
徳川家康が、江戸城に入城した頃には、ここに、現在の日枝神社と平河天神が鎮座していたのですね。
江戸城を案内する際の、よいエピソードを知りました。
「東照宮御実紀付録卷六」
御遷移のころ榊原康政をめして。この城內に鎭守の社はなきやと御尋あり。康政城の北曲輪に小社の二つ候が鎭守の神にもあらん。御覽あれとて康政鄕導してそ の所に至らせ給ふ。小き坂の上に梅樹數株を植て。そが中に叢社二つたてり。上意に。道灌は歌人なれば菅神をいつき祭りしとみえたり。かたへの社の額を見そ なはすと直に御拜禮ありて。さてさて式部不思議の事のあるよと仰なり。康政御側近く進みよれば。われ當城に鎭守の社なくば。坂本の山王を勸請せんとかねて おもひつるに。いかなるえにしありてか。この所に山王を安置して置たるよと宣へば。康政平伏して。これもいとあやしく妙なる事にも侍るものかな。そもそも 當城うごきなくして。御家運の榮えそはせ給はん佳瑞ならんと申せば。御けしきことにうるはしかりしとぞ。その後城壘開柘せらるゝに及び。山王の社を紅葉山 にうつされ。かさねて半藏門外に移し。明曆の災後に至り今の星岡の地に宮柱ふとしきたてゝ。 當家歷朝の產神とせられ。菅神の祠は平河門外にうつせしを。 又麴町に引うつして舊跡を存せらる。今の平河天神これなり。