3月3日は、江戸時代は「上巳の節句」といい五節句の一つでした。
東都歳事記には、
三月三日
上巳御祝儀、諸侯御登城、良賤民佳節を祝す 艾(よもぎ)餅桃花酒白酒炒豆等を以て時食とす。
女子雛遊び 二月の末より、屋中に談をかまへて飾るなり。当歳の女子ある家には、初の節句とて分て祝ふ。 (中略) 汐干 当月より四月に至る。其内三月三日を節とす
と書かれています。
一方、守貞謾稿には、次のように書かれています。三月三日
「上巳と云ふ。また桃花の節なる故に、婦女子は桃の節句と云ふ。今世、今日、大坂は住吉、江戸は深川洲先等に汐干狩群衆す。
今世、今日、三都とも女子雛祭す」
3月3日は、いうまでもなく雛祭です。
私の住んでいる鴻巣は、江戸時代から続く人形の町です。
そうした歴史もあるので、鴻巣市役所には、日本で一番高い雛段が設置されています。(右写真)
31段7メートルの高さがあります。
約1820体の一般のご家庭から寄付されたひな人形が飾られています。
私が見に行った一昨日の日曜日は、生憎の雨模様でしたが、子供連れの大勢の人が見に来ていて驚きました。
3月7日まで展示しています。お近くの方、お時間がありましたらどうぞ。
それはさておき、守貞謾稿では、雛に関して大変詳しく書かれています。
江戸検を受けられる方は、お読みになると思いますが、量も多く書かれていて、岩波文庫の「近世風俗志(守貞謾稿)」では14ページに亘って書かれていますので、ポイントとなるところをいくつか書いていきます。
雛は、「寛永雛」⇒「元禄雛」⇒「享保雛」と進んで、江戸時代中期には、「次郎左衛門雛」、後期に「古今雛(こきんびな)」と発展しました。雛の歴史については、「博覧強記」にも書かれていて、 お気楽マダム奮闘記 にも転記されています。
お気楽マダム奮闘記 は、「ひなまつり」について丁寧に書いていますし、コメントも面白いのでので、そちらもご覧になってみてください。
守貞謾稿には、「次郎左衛門雛」と「古今雛」が解説されています。
守貞謾稿には「名義未考。恐らく、木偶工の名なるべし」と書かれていますが、 次郎左衛門雛とは、京都の岡田次郎左衛門という人形師が創始したことからこの名があるようです。
団子のような丸顔に引目鉤鼻という面貌が特徴的で、公家や大名家に好まれたそうそうです。
右上図は、近世風俗志(守貞謾稿)に載っている挿絵の「次郎左衛門雛」、右下は「古今雛」です。
古今雛については三都とも今世これを用ふ。京師にて多くこれを製し、江戸にても下すなり。また江戸にも多くこれを造る。この工多き中に、江戸十軒店の秋月・玉山等を雛の名工とす。江戸にては八寸以上を制禁す。
と書かれています
古今雛(こきんびな)は、江戸時代の後期に、日本橋十軒店の人形師原舟月が創作したものと言われています。雛人形の顔は面長で、両眼には硝子玉や水晶をはめ込んで、写実的な表情をしています。
「古今雛」という名は「古今和歌集」など当時の人々の平安朝文化へのあこがれを反映したものだそうです。
また、 現在の雛人形は、この古今雛の様式を引き継いだものだそうです。
続いて、市松人形または裸人形について書いてあります。
市松人形は、赤ん坊の形を作り、それに衣服を着せて、遊ぶ人形です。衣服を着せないものは裸人形と呼ばれます。
京坂では、「市松人形」もしくは「いちまにんぎょう」と呼ばれますがが、江戸では、単に「にんぎょう」と呼んだと書かれています。
姫瓜雛(ひめうりびな)や髪葛子(かずらこ、 いわゆる「姉様人形」)について書かれた後、最後に、「守貞漫稿」には、京阪と江戸の雛飾りの違いが記されています。
「京阪の雛遊びは、二段ばかりに赤毛氈を掛け、上段には幅一尺五寸六寸、高さもこれと同じばかりの無屋根の御殿の形を据え、殿中には夫婦一対の小雛を据え、階下左右に随身二人、および桜と橘の二樹を並べ飾るのを普通とす。」
京坂では御殿の中に、お雛様が飾られたと書かれています。
一方、江戸ではどう飾れていたか次のように書かれています。
「江
戸では段を七、八階とし、上段に夫婦雛を置く。けだし御殿の形は用いず、雛屏風の長(た)け尺(30センチ)ばかりなるを立て廻し、前上には翆簾(すいれん)あるいは幕を張り、その内に一対の雛を飾る。
二段には官女等の類を置く。
また、江戸には、必ず、五人囃子と号(なづ)け、笛・太鼓・つづみ合奏する木偶を置く。必ず5人なり。あるいは音楽の形を作り、多くは申楽の囃子なり。」
と書かれています。
さらに、それ以下の棚の様子も詳しくか書かれています。
最近のお雛様は、コンパクトのものが増えたようですが、一時期は右写真のような雛段が主流でした。
この雛段飾りについても、次のような歴史があります。
江戸時代の初期は、座敷の床になった場所へ、一対あるいは数対が並べて飾られました。
お雛様の背後には屏風が立てまわされ、添え人形や雛道具は少なく、「屏風飾り」と呼ばれていました。
時代が下り、明和・安永の頃からお膳類がと整えられ、寛政の頃から、調度類も飾れるようになり、徐々に雛飾りは段数を増やしていきます。これが、「段飾り」と呼ばれるものです。
最近では、住居が小さくなっていますので、右上写真のように内裏雛だけを飾る家庭も増えているようですが、江戸時代初期の飾り方に戻っているとも言えそうですね。
ところで、竹翁さん(いつの間にか悪代官から名前が戻っていましたが)の昨日のコメントですが、男雛の座り方は、右上の写真のように衣装の下に隠れているので明確にはわかりませんが、楽座という座り方でよろしいのだろうと思います。
そこで、楽座についてちょっとコメントします。楽座は、公家の座り方です。
ですから、公家は正式の場では、この座り方をしていました。
江戸時代は、将軍も正式には、この座り方でした。
ウィキペデアからお借りした右の徳川吉宗の肖像画ですが、座り方が、胡坐(あぐら)でもないし、正座でもありません。
これが、楽座です。
この座り方が公式な座り方だったようです。
そのため、寛永寺のお坊さんから教えていただいたお話では、将軍が埋葬される際もこの座り方だったそうです。

