すると、いろいろなことがわかりました。
そこで、何回かに分けて、江戸時代の刑罰について書いていこうと思います。

江戸時代の刑罰は、大きく分けて、「死刑」「追放刑」さらに身体を傷めつける「身体刑」などに分けられます。 その中で、命を絶つ「死刑」について書いてみます。
江戸時代の庶民に対する死刑は6種類ありました。
江戸検1級のテキスト「博覧強記」では、3項目に大別されていますが、下記の6種類として記憶した方が覚えやすいと思います。
軽い刑から、下手人、死罪、獄門、磔(はりつけ)、鋸挽、火罪という順になります。
それぞれの刑について下記で説明します。
1、下手人 (げしゅにん)
下手人というと一般的には「人を殺した人」という意味にとらえられますが、江戸時代は、刑罰の一種でもありました。
下手人は死刑の中では最も軽い刑ですが、首を斬られるという点では、次の死罪と同じです。
しかし、死罪と異なる点は、斬首された後の処置です。
下手人の場合には、遺骸は、様斬(ためしぎり)にされませんでした。
様斬(ためしぎり)というのは、刀の斬れ具合を試すために死体を斬ることをいいます。
この御用を承っていたのが、山田浅(朝)右衛門です。
小伝馬町牢屋敷には、「様場(ためしば)」という施設がありました。
2、死罪
死罪と死刑と同じような言葉としてとらえられがちですが、命を絶つ刑罰全体を指す言葉が「死刑」です。
それに対して「死罪」は、「死刑」の中の一種を指しますので、注意してください。
「死罪」は、下手人と同じく、首を斬る刑です。
しかも、首を斬られた後、その遺骸は、様斬り(ためしぎり)にされました。
3、獄門
獄門は、死罪より思い刑で、首を斬られた後、刑場で、首を晒される刑です。いわゆる晒し首です。
獄門の場合、牢屋敷で首を斬られ、その後に鈴ヶ森か小塚原の刑場の獄門台で首のみ3日間晒されました。
4、磔(はりつけ)
磔は、「張り付ける」ということで、刑場で十字架をした罪木に縛り付けられ、突き手が槍で25回から30回突き刺しました。
そして、死後3日間晒されました。
磔は、獄門よりさらに重い刑です。
それは、獄門は、公衆のいない牢で首を斬られた後に首を晒される刑ですが、磔は、生きているうちから公衆の面前に晒され、さらに死後も晒されるれるからです。
そして、獄門は一瞬に命を絶たれますが、磔の場合には、一瞬には命がなくならず苦痛を伴う刑だからです。
5、鋸挽(のこぎりびき)
鋸挽は、鋸で首を挽かせる刑です。
縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、通行人などに一回か二回ずつ挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰であり、江戸時代以前には実際に首を鋸で挽かせていたようです。
死亡するまで時間がかかり非常な苦痛を伴う刑であるため、磔を上回る刑罰として位置づけられていました。
この刑に処せられる罪人は、日本橋の南の広場の土中に埋められた晒箱(さらしはこ)に入れられ、首だけが地面から出るようにした上で、3日間、晒されました。
(晒は日中のみで、夜間は牢屋敷に連れ戻されました)
その際、罪人の首の左右に竹の鋸と鉄の鋸を立てかけておき、鋸で首を挽ける状態にしておきました。
しかし、鋸挽といっても、実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔としました。
6、火罪
死刑の中で、江戸時代の刑罰の中で最も重い刑で、放火犯には、この刑が適用されました。
江戸は、非常に火事の多い都市でした。そして、一度火事が起きると多くの人命と財産が失われました。
そのため、放火犯に対しては極刑が下されました。
火罪というは、わかりやすく言うと「火あぶりの刑」です。
刑場で罪木に縛り付けられた後、火あぶりにされました。
生きたまま火あぶりにするのはあまりにも残酷だというので、火あぶりの前に絶命させていたという説もあります。