吉田松陰が、江戸の久坂玄瑞や高杉晋作に出した手紙は、松陰自らが老中の間部詮勝を撃つつもりであり、久坂玄瑞や高杉晋作に、それを手伝うように指示した手紙でした。
こうした内容の指示に対しては、いくら松下村塾の龍虎と呼ばれた久坂玄瑞と高杉晋作でも賛成しかねるものでした。
そのため、二人は、それを思いとどまるように手紙を書きましたが、それに対して、松陰は、絶好の手紙を送ったのです。
これは、前半で描かれていた内容です。
江戸にいる弟子たちと絶交した松陰は、萩にいる弟子たちに、「伏見要駕策」という策を立案して弟子たちに指示しました。
「伏見要駕策」というのは、3月に参勤交代で江戸に上る藩主の毛利敬親を伏見で迎え、大原重徳たちの革新派公卿を擁して京都に入り、勅を奉じて幕府の失政を正そうという計画でした。 こうした激しい計画に対して、弟子のほとんどは賛成しませんでした。その中で、唯一賛成したのが入江九一でした。
この入江九一は、足軽の長男でしたが、久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿とともに松下村塾の四天王と呼ばれる俊英です。
しかし、実際に行動を起こしたのは入江九一の実弟野村靖(右写真:「花燃ゆ」では、大野拓朗が演じています)でした。
野村靖は、親戚の養子となっていたため姓が異なっているようです。
昨日の「花燃ゆ」で兄たちを止めていたのが、妹のすみ子ですが、すみ子は、後に伊藤博文の妻となっています。
野村靖は、2月下旬に脱藩して京に上りましたが、大原重徳は、時機が熟していないといって賛成せず、動こうとしませんでした。
やむなく、野村は京都藩邸に自首し、萩に護送され岩倉獄に入獄しました。
野村靖の脱藩はすぐに露見したため、兄の入江九一も岩倉獄に繋がれました。
ここまで、昨日の「花燃ゆ」に描かれていました。
入江九一は、・野村靖の兄弟二人は、後に許されて、岩倉獄を出獄した後、尊王攘夷運動に身を投じます。
そして兄の入江九一は、禁門の変で、自刃をして命を落します。
一方、弟の野村靖は、明治維新を生き残り、第2次伊藤博文内閣の内務大臣に、の第二次松方内閣の逓信大臣など顕職を歴任しています。
この野村靖は、明治になって、吉田松陰の遺書を預かるという重要な役割を果たしました。
野村靖の所に、明治9年(1876)、ある人物から届けられたのが、吉田松陰の遺書「留魂録」です。
吉田松陰は、死刑が確実視された安政6年(1859)の10月25日に遺書「留魂録」を書きました。 慎重な松陰は、「留魂録」は二冊書いたそうです。そして、一部は、松陰の死後、弟子たに渡り、写本もされ、弟子たちに回覧されました。
残りの一部は、同獄であった牢名主沼崎吉五郎に預けられました。
沼崎吉五郎は、三宅島に遠島となりますが、その間も「留魂録」を大切に肌身はなさず守りとおしました。
沼崎吉五郎は、明治7年に許されて東京に戻りました。
そして、神奈川県権令となっていた野村靖に、明治9年に17年間大事に保管していた「留魂録」を渡したのです。
その「留魂録」が、現在、萩の松陰神社に残されているものです。
弟子たちに渡った「留魂録」は、写本はありますが、現物は残されていません。
沼崎吉五郎が、長い間大事に守り、それが、野村靖に渡されなければ、「留魂録」現物はなかったことになります。
この「留魂録」については、古川薫氏が現代語訳して講談社学術文庫「留魂録」として出版されています。
吉田松陰にご興味のある方のご一読をお勧めします。

