「花燃ゆ」は、いくら杉文が主人公と言っても、やはり、役不足は否めないと思いますので、吉田松陰がかなり話題を提供してくれていました。
この「花燃ゆ」についてのコメントも、吉田松陰中心に書いてきましたので、約4ヶ月間、勉強の題材を提供してもらいました。
これからは、久坂玄瑞や高杉晋作中心にコメントすることになると思います。
さて、昨日の「花燃ゆ」では、江戸に送られたら、すぐに小伝馬町牢屋敷に入れられたように描かれていました。
しかし、江戸に送られた松陰は、6月25日に江戸に到着し長州藩江戸屋敷に入りました。そして、7月9日に、評定所に呼び出され取り調べが行われました。
評定所は、最高の審判機関で、松陰の取り調べには、寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清(あつきよ)などがあたりました。
松陰の容疑は、2つありました。
一つ目の容疑は、安政3年に、梅田雲浜が萩を訪ねた際に政治的な謀議を行ったのではないかということでした。
二つ目の容疑は、御所に幕政を批判した投げ文(投書)したのではないかということでした。
松陰は梅田雲浜と合ったことはありますが、松陰は梅田雲浜に対する印象は良くなかったようですし、投げ文もまったく関わりのないことでした。
そのため、幕府の疑いは、なんなく反論でき、容疑を解くことができました。
このままで終われば、松陰は、重い罪にならずに、萩に生きて帰れたでしょう。しかし、この場で、幕府の探索機関も把握していなかった老中間部詮勝の要撃計画を自ら告白してしまいます。
この重大計画を聞いた奉行たちは、事の重大さに驚き、松陰を小伝馬町牢屋敷に投獄しました。
松陰が投獄されたのは、小伝馬町牢屋敷の西奥揚屋でした。ここの牢名主が、昨日も再三登場していた沼崎吉五郎です。
沼崎吉五郎は、松陰の遺書「留魂録」を長く預かっていた人物ですが、沼崎吉五郎が、あれほどクローズアップされるとは思いませんでした。
「花燃ゆ」では、松陰は井伊大老と直に話をするために、老中間部詮勝要撃を自白したと小田村伊之助に述べていました。
そして、松陰の狙い通りに井伊大老が評定所に現れました。
これもフィクッションと言ってよいと思います。
開幕以来200年以上がたっている幕府は、組織だって政権運営が行われていました。
重大な事件といえども、最高法廷は評定所とされていて、その席に、大老が出座するということはありえません。
また、井伊大老が、吉田松陰を直に取り調べたという記録も残されていません。
どうして井伊大老が取り調べの場に出座するという思いがけないストーリーにしたのかと私も疑問に思いましたので、ちょっと考えてみました。
最後の場面で、井伊大老が、松陰の罪名を、「遠島」から「死罪」に書き換える場面がありました。
当時の刑罰の決定には、遠島以上の重い刑罰については老中の決裁が必要でした。さらに死刑は将軍の許可が必要でした。
そのため、評定所で取り調べた案件に対すす刑罰案が、評定所から上伸されますが、多くの場合は、その刑罰案通りに裁決されることが多いのです。
しかし、吉田松陰の場合には、それが井伊大老の段階で、重くなったのではないかという説があります。 その説に沿ったストーリーにするためには、罪名の書き換え場面だけでは、視聴者が理解できないので、あえて、井伊大老と吉田松陰との対決という場面を入れたのではないかと思います。
以上書いたように、昨日の「花燃ゆ」は、一般に書かれている吉田松陰の江戸の評定所での取り調べとは大幅に異なったストーリーであり、昨日の展開の多くはフィクションになっているように思います。
しかし、大河ドラマ「花燃ゆ」はおくまでも「ドラマ」ですので、フィクションであっても良いのだろうと思います。
ただし、史跡案内では、フィクッションばかり話している訳にはいかないので、土曜日に行われた小塚原回向院にある吉田松陰のお墓(右上写真)の案内では、「吉田松陰と井伊大老との対決なんてありませんでしたよ」と解説しておきました。
なお、吉田松陰の遺書「留魂録」については、以前に詳しく書いてあります。
ご興味のある方は 「留魂録」 をお読みください。