江戸検でも、五節句はかなり出題されています。しかし、どういうわけか端午の節句については過去一度も出題されたことはありません。
この過去問の傾向から、「今年も端午の節句は出題されないだろう」と考えるか、「いやいや、これまで出題されていないのであれば、今年は危ないのではないのかな」と考えるかは、受検される方が判断することだと思います。 ただ、私は、後者の考えですので、端午の節句について勉強しています。
そこで、端午の節句に関連する事柄をブログにもアップしていこうと思います。
東都歳事記には
五月五日 端午御祝儀、諸侯登城。粽(ちまき)献上あり。貴賤、佳節を祝す(家々軒場に菖蒲(しょうぶ)・蓬(よもぎ)をふく。菖蒲酒を飲み、また、粽・柏餅を製す、小児、菖蒲打ちの戯れをなす。
と書いてあります。
ここでは、菖蒲と粽・柏餅について書いてあって、この後に「幟や冑人形」についての説明が続くのですが、長くなるので、幟等については、明日以降書きます。
まず、端午の節句の由緒について書いてみます。
日本年中行事辞典 (角川小辞典 16)には
「端午 5月5日。端とははじめという意味(正月を端月という類)で、端午は、月のはじめの午の日をいうことば。 五月以外の月に使った用例もあり、必ずしも五月の第一の午の日と限定されなかったが、漢代もしくはそれ以後から五月五日をさして端午というようになった」
と書いてあります。
他の年中行事辞典を見てもほぼ同じように、「端午の端は初めの意で、端午とは5月の最初の午の日という意味であり、午と五の音が通じるため5月5日をさすようになった」というふうに書いてあります。
いままではそう覚えていましたが、実は、最初の午の日がなんで5月5日になるのかと、なんとなくしっくりこないなぁと思っていました。
一方、「東京年中行事1」には
「端午は、支那では昔五と午の音の通ずるところから、端午の字を用いるようになったのである。端午の意は初五の意であって、必ずしも5月に限った名ではなかったのが、五月の節の重んぜらるるに至って、自然と五月五日のことをさすようになったのである」
と書いてあります。
五日をさす五が音の似ている午になったというのです。
こちらの方が、私は理解しやすように思います。
さて、端午の節句の食べ物といえば「柏餅と粽(ちまき)」だと思います。
そこで。「粽と柏餅」について書きます。関東に住む私たちは、端午の節句と云えば「柏餅」ですが、「柏餅」が端午の節句に食べるようになったのは、江戸時代になってからで、それまでは、端午の節句といえば粽だったようです。
松下幸子千葉大学名誉教授のコメントには次のように書かれています。
「江戸初期までは、端午の節句菓子は粽で、中期から柏餅が併用され、後期には関東では柏餅、関西では粽が主流となり現在に至るということのようです。」
なるほど! なるほど!
粽は中国から伝来したものです。
中国古代の楚の国の詩人・政治家である屈原(くつげん)が川に身を投げて非業の死を遂げ、その屈原の霊を慰めるために人々が命日の5月5日に供えた物が粽でした。
奈良時代には粽の原型が見られ、平安時代の「延喜式」にはその名前が見られるとのことです。
そして江戸時代後期の様子は 守貞謾稿に次のように書いてあります。
京坂にては、男児生まれて初の端午には、親族および知音(ちいん)の方に粽を配り、2年目よりは柏餅を贈ること、上巳の菱餅と戴(いただき)のごとし。
その後に、具体的に粽の挿絵を載せて、粽について詳しく書いてあります。(下図参照)
江戸検を受検される方で近世風俗志(守貞謾稿)をお持ちの方は214ページから215ページを読んでみてください。

柏餅が広まった時期については、宝暦の頃、天明の頃と諸説あるようです。
柏の葉は、新芽が出てから古い葉が落ちるので、子孫繁栄の縁起をかついで武家の間で大事にされました。
こうしたことから、柏餅が武士の町江戸で広まったものと思われます。
守貞謾稿では、柏餅についても詳しく書いてあります。江戸にては、初年より柏餅を贈る。三都ともその製は、米の粉をねりて、円形扁平となし、二つ折りとなし。間に砂糖入り小豆餡を挟み、柏葉、大なるは一枚を二つ折りにして、これを包む。小なるは二枚をもって包み蒸す。
江戸にては、砂糖入り味噌をも餡にかへ交ぜるなり。
小豆餡には柏葉を表に出し。みそ噌には裡(うら)を出して標とす。
江戸では、小豆餡の他に味噌餡の柏餅があったんだぁ。
なるほど!なるほど!
そして、柏の葉の裏表で、それを区別していたのですね。
賢い!!
そして、これを詠んだ川柳までありました。
葉うらうら 葉表おもて 味噌とあん
さらに、こんな川柳もあります。
かしわ餅 念頃ぶり「(親しいところ)は 味噌もやり

