端午の節句についていろいろ勉強してきましたが、最後は、「鎧兜」について勉強しました
東都歳事記によると、4月25日から5月4日まで、冑人形菖蒲刀幟市が立つと書かれています。
その冑ですが、私は、なんとなく鎧兜は金属製だと思っていました。
東都歳事記には、「鎧冑」については
五月五日 武家は更なり、町家に至る迄、七歳以下の男子ある家には、戸外に幟を立、冑人形等飾る
とだけ書かれているだけで、詳しいことは書いてありません。
そこで、近世風俗志(守貞謾稿)を読んでみますと、そこに、次のように詳しく書かれています。
今世の飾り鎧兜、その製金・革を用いず。厚紙を重ね張り、胴・草摺・小手・脚当、これを用ひて製造し、あるひは切小さねのごとく、その他種々。外見真の甲冑のごとく、蚕の組糸をもってこれを威し、紙張り表に漆し、あるひは黒ぬり、または鉄粉を塗り、所により鉑を押し、蒔絵を描き、金めつきの銅具を打ちて、精製なるあり
なるほど、江戸時代の後期の鎧兜は、本物の鎧のように金属や革を用いず、厚紙を材料とし、兜だけでなく鎧まで製作されていたんですね。
しかも、それは、外見はまるで本物の甲冑のようだったようです。
紙の表面には、漆で黒くぬったり、鉄粉を塗ったりし、場所によっては箔押しし、蒔絵を描いたり、金メッキしたりして作った様子がわかります。
こんなに加工されているんですから随分立派なものだったようです。
さて、以上で端午の節句についてはおしまいですが、東都歳事記の五月六日には次のように書いてありました。
今日婦女子の佳節(せっく)と称して、遊楽を事とすれども、未(いまだ)その據(よ)るところを知らず
6日は婦女子の節句で、婦女子が遊ぶようだけれど、斉藤月岑もわからないと書いています。
書いている斎藤月岑がわからないのでは私もわからないなぁと思いながら注釈を読むと
田植に先立つ物忌みに女がこもっていたことの名残であろう
と書いてあります。
まだ、わからん!
そこで、年中行事辞典をいくつ読んでみると、「日本まつりと年中行事事典」には
端午の節供を男の子の節供とし、3月の節供と対比させる考えが一般的となっているが、各地の習俗をみると女性に関する伝承も多い。この日を女の家・女の宿などと称する地方は広く分布し、嫁の里帰りの日と伝える所もある。
これらの例は、元来5月が皐月つまり田植え月であったことと関係が深いと考えられる。皐月は田植えという祭に際して斎戒禁欲し、田の神を迎える月であった。その月の初めに早乙女として祭りの主役をなす女性は忌み籠りをし神を祀った。
と書いてあります。
なるほど、そうか!!
日本の古来の習俗として、5月5日に、田植えを控えた女性が仕事をせずに籠った名残が、6日の婦女子の節句となったようですね。
私は納得しました。