そこで、今日は「花燃ゆ」について書きます。
前回の「花燃ゆ」では、吉田松陰が処刑されてしまい、準主役級が欠けてしまい、 これから、幕末の激動の時代のまっただなかで久坂玄瑞や高杉晋作が活躍していくわけですから、彼らから描く描き方には興味があるものの、女性から見た幕末史をどう描くのか、不安視しながら、とちあえず見ていこうと思います。
今回の「花燃ゆ」のコメントは、何についてしようかなと見ながら考えていました。
坂本龍馬もあるなぁと思っていましたが、今回の「花燃ゆ」では、短時間しか取り上げられていませんでしたが、井伊大老と桜田門外の変について書こうと思いました。
そこで、井伊大老が眠っている豪徳寺にお参りしてから書こうと思っていました。
結果的に、豪徳寺に行くことができたのが昨日でした。
そこで、「花燃ゆ」第18回のコメントが今日になってしまいました。
昨日は、良い天気で、5月の毎日文化センターの気ままに江戸散歩「吉田松陰ゆかりの地を歩く」の下見を兼ねて、豪徳寺・松陰神社など世田谷を歩いてきました。世田谷地区の御案内は別に紹介する機会もあるかと思いますが、今日は「花燃ゆ」関連記事ですので、井伊大老のお墓だけ紹介します。
井伊大老は、安政7年(1860)3月3日に、水戸浪士たちに襲撃され、命を落します。
この桜田門外の変については、過去に詳しく書いてありますので、桜田門外の変 をご覧ください。
時の大老が白昼公道で暗殺されるということは、幕府の力が弱まっていることを如実に表すことですので、幕府にとって大問題でした。
当然、幕閣にとって、襲撃者たちの捕縛および原因究明は重大なことでした。
しかし、当面の手当てとして、緊急に処置しなくてはならないことは、別のことでした。
それは、何かというと、彦根藩と水戸藩の武闘を避けるということです。
藩主を殺害された彦根藩では、激昂した藩士たちが「水戸撃つべし」と叫びます。
このまま放置すれば、激昂した彦根藩たちが水戸藩に討入りすることになります。
彦根藩は譜代筆頭の名門、一方の水戸藩はいうまでもなく御三家の一つで、ともに幕府を支えるべき重要藩です。
この二つの藩が争うことは、弱体化した幕府を一層弱体化させるのは確実です。
これを避けるため、時の老中安藤信正が考えたのが、「井伊大老は襲撃されたが負傷した」ことにするという策です。
そのため彦根藩にその趣旨を伝え、彦根藩から「拙者儀取押え方等指揮致し候処、怪我致し候に付きひとまず帰宅致し候」と書かれた届を提出させます。
翌日4日には小納戸頭取塩谷豊後守を派遣し高麗人参が見舞いの品として届けられています。
しかし、実際には、有村次左衛門によって、井伊大老の首は斬り取られて持ちさられていました。
そこで、彦根藩では、必死になって、井伊大老の首を探し、近江三上藩遠藤家にあることを突き止め、その首の返還をお願いすることになります。
しかし、井伊大老は負傷しただけで生きていることとなっています。
そのため、井伊大老の首を返して欲しいとは言えません。
そこで、井伊太郎と背格好が良く似ていた家来の加田九郎太が現場でなくっていたことから、その加田九郎太の首として、遠藤家に返還要請し、引き渡してもらいます。
そして、藩医岡島道隆が首と胴体を縫合しました。
幕府の強い要請により彦根藩の水戸藩への討入りも抑えることができ、いくらか沈静化した後、井伊大老の死去が幕府に届けられます。
そのため、豪徳寺にある井伊大老のお墓に刻まれた命日には、3月3日ではなく閏3月28日となっています。
井伊大老のお墓参りをする機会がありましたら脇の日付をみてください。
また、井伊大老の墓碑には、「宗観院殿前羽林羽林中郎将柳暁覚翁大居士」と刻まれています。前羽林中郎将」は官職名で、戒名は「宗観院殿柳暁覚翁大居士」です。この戒名ですが、生前に、直弼が彦根に送った書状になかに添えられていたものだそうです。
すでに、死を覚悟して政権運営にあたっていたということなのだと思います。
そういえば、襲撃される当日には、彦根藩邸に、襲撃の計画があるので注意するようにと書いて投げ文があり、井伊大老はその忠告をあえて無視して登城していったという話も残されています。
井伊大老の死は覚悟の死だったのだと思います。
昨日は、そうしたことを頭に浮かべながら井伊大老のお墓参りをしてきました。

