先日の神田祭では、相馬野馬追の騎馬武者が9騎、附け祭に参加して、勇壮な姿を見せてくれました。
しかし、この騎馬武者は、江戸時代の神田祭に参加していたわけではありません。
平成2年から神田祭に参加するようになったものです。なぜ福島県の相馬野馬追と東京の神田明神と関係あるのだろうと思う人も多いと思います。
この相馬野馬追の騎馬武者は、神田明神の御祭神平将門と関係があります。
平将門は、桓武天皇の5世の孫で、いわゆる桓武平氏の一族です。 平安時代中期の承平5年(935),一族との争いが起きて,叔父の国香を殺害し、天慶2年(939)に、常陸・下野・上野の国府を攻せめおとし,自ら新皇(しんのう)と称しました。
一時は関東全体を従えましたが,翌年,藤原秀郷・平貞盛らによって滅ぼされました。 これが有名な天慶の乱です。
殺害された将門の首は、京都に送られ獄門となりました。その首が京から持ち去られて、現在の大手町に葬られました、それが、将門の首塚であると言われています。
その後、将門の首が葬られた塚の周辺では、疫病の発生や天変地異が起こり、これが将門の祟りであるとして周辺の人々から怖れられました。
そうした中で時代が下り、鎌倉時代に時宗の僧侶真教上人が塚を訪れ、平将門の供養を行ない霊を慰め、さらに、塚近くの神田明神にお祀りしました。
これ以降、平将門は神田明神の御祭神として崇められました。
相馬野馬追が開催される南相馬市は、江戸時代には、相馬中村藩と呼ばれました。
この相馬中村藩の藩主は相馬氏です。
この相馬氏の直接の祖は坂東平氏の一つ千葉氏の祖千葉常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)です。
千葉師常は下総国相馬郡(現在の千葉県柏市北部や我孫子市、さらに茨城県守谷市一帯)を領して相馬氏を名乗りましたが、源頼朝の奥州平泉討伐の功によって陸奥国行方郡(なめかたぐん:現在の南相馬市・相馬郡飯舘村)を与えられました。
その後,千葉胤村の五男師胤が行方郡の所領を譲られて,その子重胤が一族とともに行方郡に下向しました。それ以後、下総国相馬郡に残った相馬氏は下総相馬氏、奥州に移住した相馬氏は奥州相馬氏と呼ばれました。
下総相馬氏は、戦国時代には北条氏に仕えましたが、豊臣秀吉の北条征伐により、北条氏とともに滅びます。
一方、奥州相馬氏は、戦国時代を生き残り、江戸時代には相馬中村藩を領して明治維新を迎えました。
この相馬氏は直接的には千葉氏の一族ですが、平将門が幼名「相馬小次郎」と称したとされ、千葉師常は相馬氏の養子として迎えられたという言い伝えもあって、相馬氏は平将門の後裔とも言われています。
ですから、神田明神と相馬氏は平将門を介して深い関係があります。
ところで、平将門を御祭神とする神田明神の随神門(右上写真)の2層の左右にに繋ぎ馬の彫刻があります。気づきましたか?
この繋ぎ馬は平将門の紋とも言われていますが、中村藩相馬家の家紋でもあります。
右下写真は、文化元年の武鑑の相馬氏の部分ですが、家紋が繋ぎ馬であることがわかると思います。
こんなところにも、神田明神、平将門、相馬氏の関係がのぞいています。
平将門と相馬氏との間にはこのような関係があり、有名な相馬野馬追について書いた南相馬市のホームページを見てみると(相馬野馬追は)一千有余年の昔、相馬氏の祖といわれている平将門が下総国(千葉県北西部)に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりと伝えられる
と書かれています。
つまり、相馬野馬追の原型を作ったのは平将門という言い伝えがあります。
相馬中村藩では、江戸時代を通じて、野馬追行事を、戦闘訓練の場として重視してきました。
現在でもその伝統が受け継がれ、相馬野馬追は、毎年7月末の土曜日・日曜日・月曜日に開催されます。平成23年に起きた東日本大震災で大きな被害を受けた南相馬市ですが、大震災にもめげす、大震災が起きた年も相馬野馬追を実施したと出陣式の際、南相馬市桜井市長が挨拶されていました。
桜井市長は出陣式の挨拶だけでなく、実際に馬に乗って騎馬武者隊の先頭を進んでいました。
右上写真は、有馬小学校を出発する騎馬武者隊の先頭に立つ桜井市長です。
相馬野馬追当日は、甲冑に身を固めた500余騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗指物をつけて疾走する豪華絢爛で勇壮な戦国絵巻を繰り広げるそうです。相馬野馬追はまだ見たことがありませんが、相馬野馬追の騎馬武者の勇壮な姿の一端を、神田祭で垣間見ることができました。
また、東日本大震災にも負けず祭に参加される相馬野馬追の騎馬武者の皆さんから元気をもらった神田祭でもありました。

