昨日は、毎日文化センターの講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」の最終回があり、世田谷(主な案内場所:教学院、松陰神社、豪徳寺、世田谷城址公園)を案内しててきました。
昨日は、一人の欠席者もなく、大部隊でしたが、事故もなく無事終了しました。
気温は少し暑い感じでしたが、天気も良くて快適に楽しく散歩できました。ご参加いただいた皆様ご協力ありがとうございました。
最初にご案内したのは目青不動として知られる教学院です。
五色不動とよばれる目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の一つです。
目青不動は、江戸時代には麻布谷町(現・港区六本木一丁目付近)にあった観行寺にお祀りされていました。
しかし、明治15年に観行寺が廃寺になったため、ご本尊の不動明王像(秘仏)と前立の不動明王像が教学院に遷されました。
このお不動様の像の作者は目黒不動と同じ慈覚大師といわれていて、お不動様は秘仏で公開されないそうです。
お不動様の像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれるそうですが、堂内が暗くて閻魔様がいるのが確認できませんでした。
教学院は、小田原藩大久保家、烏山藩大久保家、荻野山中藩の菩提寺です。
この大久保一族からは老中が5人でています。 小田原藩から4人(忠隣、忠朝、忠増、忠真)、烏山藩から1人(常春)です。
このうち忠隣以外のお墓が教学院にあります。
そこで、この人たちのお墓をご案内し、特に二宮尊徳を見出したことでも有名な小田原藩中興の名君忠真について詳しく説明しました。
右写真の右端が大久保忠真のお墓です。
吉田松陰は安政6年(1859)10月27日、小伝馬町牢屋敷で30歳の若さで死刑になり、小塚原回向院に埋葬され、文久3年(1863)正月5日、吉田松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって世田谷若林の長州藩抱え屋敷に改葬されました。
元治元年の禁門の変の後、江戸にある長州藩邸は幕府に没収されましたが、若林の抱え屋敷は没収され(旗本志村氏に引き渡された)、吉田松陰のお墓も破壊されました。
明治になって、明治15年11月21日吉田松陰門下の人々が相談して、お墓にそばに社を建てて松陰神社が創建されました。
松陰神社には、萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模してつくられた松下村塾がありますので、松下村塾についてもご案内しました。。
松下村塾というと吉田松陰が開いた塾のように思う人が大部分だと思いますが、松下村塾は、松陰の叔父の玉木文之進が開いた塾です。
松下村塾というのは、塾があった松本村からとった名前です。
松陰が塾生に教育したのは安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、2年半程でした。
松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文などが特に有名です。
松陰神社の墓所には、多くの人が眠っています。
もちろん、中心となるのは吉田松陰です。
その隣に安政の大獄でなくなった小林民部、頼三樹三郎が埋葬されています。
その他、来原良蔵、中谷正亮、福原乙之進、綿貫次郎輔、其の他の墓碑があります。
文久三年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助等により、吉田松陰の遺骨が小塚原回向院から改葬されました。
同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院より改葬しました。
禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって吉田松陰以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等により明治元年に吉田松陰以下の墓を修復しました。
豪徳寺は、世田谷城跡の一部でした。
寺伝によれは今から500年前は世田谷城内の小庵で弘徳院といい、室町時代後期の文明12年(1480)吉良政忠という吉良氏の一族の人が伯母のために建てたもので、その法号にちなんで弘徳院と名づけられたといわれています。
寛永10年(1633)に、世田谷は彦根藩井伊家の領地となり、その時の井伊家藩主井伊直孝により、井伊家の菩提寺に取り立てられました。
井伊直孝が亡くなった後、直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に基づいて豪徳寺と寺号を改めました。
直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めました。
その当時の仏殿や石灯籠、梵鐘が現在も残されています。
右上写真は、仏殿を見る参加者の皆さんです。仏殿の額に「三世仏」と書かれています。
豪徳寺には三重塔があります。 三重塔は平成18年に完成したものです。
この塔の一層目に干支が彫られています。真北を向いた面の真ん中のところから、時計回りに子、丑、寅、卯・・・・と。彫られています。
北の中央は猫が彫られていますが、その両脇にネズミが彫られています。
向かって左のネズミは小判を持っています。
さらにその上の二層にも猫が彫られています。
右写真は、猫の彫刻をさがす参加者の皆さんです。
井伊直弼の墓は都史跡に指定されています。
井伊直弼は、極悪人のように描かれていることが多いのですが、これは、明治新政府を作った人々が吉田松陰の門下生が多かったことあるいはその知人であったことから、松陰を死罪においやった井伊直弼を敵と考えていたことが大きく影響していると言われています。
しかし、戦後以降、こうした評価にとらわれない井伊直弼の真の人物像が描かれてようになりました。
そうした中で、文化人としての井伊直弼ついても多くしられるようになってきました。
そして、剣では居合の達人となり新心新流を興しました。
芸術では、和歌、茶道、狂言に力をいれました。
そして、それぞれ、一家をなすまでに腕をあげました。
和歌では歌集が出されています。茶道では彦根一会流という流派をつくりあげています。狂言では「鬼が宿」という作品を残しています。
こうしたことから、あだなが「ちゃかぽん」とうつけられました。
直弼は、このように下積みが長く苦労した人物でした。
安政の大獄については評価がわかれるところですが、日本の行く末を考えたうえでやむえずとった政策であると擁護する意見もないわけではありません。
桜田門外の変が起きた日、水戸浪士たちの襲撃の計画があるという投げ文を無視して登城したことやここに刻まれている戒名は、亡くなる前に井伊直弼が自分で決めていたことなどから死を覚悟していたのではないかとも言われています。
豪徳寺から世田谷城址公園にかけて世田谷城という城が、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされるまでありました。
吉良氏といえば吉良上野介を思い出すと思います。
吉良上野介の吉良氏は、三河吉良氏と呼ばれます。
世田谷城の吉良氏は奥州吉良氏と呼ばれ、三河吉良氏と先祖は同じとする一族ですが、吉良上野介の吉良氏とは別の吉良氏です。
世田谷城は武蔵野台地の一角にあります。台地の先端部にあり、西・南・東の三面に烏山川が蛇行して、要害をなしていました。
豪徳寺参道沿いに土塁が残っていますし、城址公園には土塁と堀が残されています。
最後は、恒例の飲み会です。
もう、これが楽しみという人も多くて、快い散歩の後の酒は皆さん格別のようです。
わきあいあいの飲み会は、飲む量が増えるのに従って、いつしか声高となり、他のグループを圧倒していました。
最後に記念撮影です。
一次会が終わり、渋谷まで来たら、誰が言い出したかわかりませんが「今日はどうする?」との声があり、即座に、加州そうせい公、浜之悪代官、五瓜紋の殿、火盗改鬼平後のお殿様たち、「行くぞ」ということになり、軽く2次会をやって帰りました。
4人の悪殿の皆さん、今回も遅くまでありがとうございました。
やっぱり「悪(わる)よのう」ですね。