両国橋の両側、いわゆる両国広小路が大変な盛り場であったということは知っていましたが、「東都歳事記」という身近な本に、こんなに詳しく書いてあるということを初めてしりました。
「東都歳事記」には次のように両国橋の夕涼みの様子が書かれています。 「両国橋の夕涼今日より始り、八月二十八日に終る。ならびに茶屋、見せ物、夜店の始にして、今夜より花火ともす。逐夜貴賎群衆す」
とあります。
納涼と言えば両国橋が大変有名でした。
「この地四時蕃昌(はんじょう)なるが中にも、納涼の頃の賑はしさは余国にたぐひすべき方はあらじ」と書かれていて、いつも賑やかな両国橋周辺が納涼の頃は一層賑わった書いてあります。
その賑わいの様子も「東都歳事記」に書かれています。
私なりに書かれている内容の概略を書いてみると次のようになります。
両岸には茶店がならびきれいどころが客をさそっている。
路には、つなわたり、かるわざ、なんきんあやつり、さるしばい、そのほか、珍獣などの看板をかかげたみせ物などの小屋が並んでいる。
また、楊弓(ようきゅう)、影芝居、落語、髪結い床、人相観、占い師、水菓子、心太売りなどがあり、ないものはないという賑わいぶりである。
日が暮れてくると茶店の軒にともしびが灯って、まるで暗闇がない国のようである。
雷のようなすごい音がするので驚いて首を上げてみると、花火が天空に広がっている。
両国橋で遊んでいる人は、金持ちも貧しい人も金を惜しまないというのももっともなことである。
誠に世界第一の見事な景観である。
納涼は、3代将軍家光の時代である寛永・慶安年間に始って、承応年間には盛んになっていたとも言います。
そして、明暦3年(1657)の明暦の大火後、両国橋が架けられました。
両国橋の東西のたもとは、橋に類焼しないように広小路が設けられました。
そして、恒久的な建物の建築が禁止されたため、すぐに解体できる床店や芝居小屋・見世物小屋が建てられました。
そのため、江戸随一の盛り場となりました。
天保4年の瓦版「両国八景はうたいよぶし」には次のように両国の見世物が詠いこまれています。
「これは両国盛り場の名寄せ、咄講釈浄瑠璃や、万作踊りに小供芝居、操人形、軽業じゃ、子供新内、玉ぞろい、楊弓、茶見世に花火船、続いて影芝居、さっても願おう夕涼に江戸の花」
両国橋には、いろいろな見世物があったんですね。