今日は、守貞謾稿にも『5月28日 浅草川川開き』という項があり、両国の様子が書かれていますので、その紹介から始めます。
近世風俗志(守貞謾稿)をお持ちの方は、4巻の217ページを見てください。
そこには次のように書かれています
五月二十八日 浅草川川開き 今夜初めて、両国橋の南辺において花火上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群衆す。今夜より、川岸の茶店、夜半に至るまでこれあり。軒ごと、絹張り行燈に種々の絵をかきたるを釣り、茶店・食店等、小提灯を多く掛くる。茶店、平日は日暮限りなり。今日より夜を聴す。その他観場および音曲、あるひは咄・講談のよせと云ふ席等も、今日より夜行を聴す。今夜大花火ありて、後納涼中、両三回また大花火あり。その費は、江戸中、船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり。納涼は専ら屋根船に乗じ、浅草川を逍遥し、また両国橋下につむぎ涼むを、橋間にすゞむと云ふ。大花火なき夜は、遊客の需に応じて、金一分以上これを焚く。
この中で、注目すべきことは、花火の費用が、「船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり」 と書かれていることです。
花火の費用は、船宿などが負担していたのですね。やっぱり客寄せの面もあったと思われます。
船宿というのは納涼・遊郭への往復、宴会などに利用された宿です。
その船宿がどこに多かったかについて、東都歳事記に書かれています。
東都歳事記には、昨日書いた「夕涼み」に続いて「船遊山」という項目があり、大変詳しく書かれています。
最初は次のように書かれています。
船遊山 両国より浅草川を第一とす。花火の夜はことに多し。やかたぶねの名は「江戸砂子拾遺」に百艘を挙ぐ。今は次第に減じて、屋根船(本名日よけ舟)のみ、年々に多くなれり
そして、その後に船宿が多い場所が列挙されています。
船宿 日本橋東西河岸・鞘町河岸・本銀町壹丁目・江戸橋・堀江町・伊勢町・両国橋東西・柳橋・米澤町・本所一ツ目辺・石原・浅草川吾妻橋の東西・鉄砲洲・霊元島(後略)
東都歳事記には、屋形船についても説明しています。
屋形船は、東都歳事記にも、守貞謾稿にも、幕末には少なくなったように書かれていますが、東都歳事記に面白いことが書いてありましたので、紹介しておきます。
屋形船は、寛永の頃より時花(はやり)出て、百艘に極りしとぞ。東國丸といへるを大船の始とし、夫より続て、熊市丸、山市丸あり。
熊市は座敷九間に台所一間ある故なり。
山市は座敷八間台所一間ありし故なり。(後略)
これおもしろいですね。
さらに猪牙船の由来について書いてありましたが、それがおもしろいのでそれについて書いておきます。
(菊岡)沾凉が「世事談」に「猪牙舟は明暦の頃両国橋笹屋利兵衛見付の玉屋勘兵衛と云う者これを造る。押送りの長吉というもの、船を薬研の形に作り、魚荷を積て押に、至て早し。是を考へてつくるものなり。長吉船というべかりけるを、ちょき舟と云えり。近年猪牙の2字を用う。猪の牙に状(かたち)似たるゆえか」とあり。
なるほど、なるほど! 最初は長吉という人が工夫したので長吉船と呼ばれていたのがいつしか「ちょき船」と呼ばれるようになったという説があるんですね。