昨日書いた「守貞謾稿」にも
五月二十八日 浅草川川開き 今夜初めて、両国橋の南辺において花火上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群衆す。と書いてありますし、、
東都歳時記の二十八日の項には
今夜より花火をともす。 (中略) 鍵屋玉屋の花火は今にかわらず。
と書いてあります。
両国橋の川開きは、武江年表によれば、享保17年5月に幕府が全国の餓死者の慰霊および悪疫退散を兼ねて、両国川で水神祭を開催して、両岸の水茶屋も川施餓鬼をおこなったのが始まりであると書いてあります。
なお、「一説には享保18年とするもある」 とも書いてあります。
この川開きに花火が打ち上げられました。
この花火の打ち上げは、横山町の鍵屋弥兵衛と両国広小路の玉屋市郎兵衛の請負で行われました。
両国橋の上流は玉屋、下流は鍵屋を受け持っていました。
これにより、見物客も「かぎやぁー」「たまやぁー」と歓声を上げるようになりました。
玉屋は、文化5年(1808)に鍵屋7代目が番頭の清七にのれん分けして起こした店の歴史は浅いのですが、玉屋の方の人気が高かったようです。
次のような歌や川柳が残されています。
橋の上 玉や玉やの 声ばかり なぜに鍵やと いわぬ情けなし
また玉屋 だとぬかすはと 鍵屋言い
不出来は みな鍵屋へ おっかぶせ
しかし、天保14年(1843)、家慶日光社参の前夜、玉屋は火事の火元となったため、江戸所払いとなり廃業となり、 以後鍵屋だけが残りました。鍵ばかり居なりで玉は紛失し
玉屋の存続期間が35年しかありませんから、鍵屋と玉屋が両国橋を挟んで上流と下流で競演をしていたのはそう長くありません。
右の浮世絵は、名所江戸百景の「両国花火」です。
この絵は安政5年(1858)に描かれていますので、この絵の花火を打ち上げたのは鍵屋ということになりそうです。

