6月1日には、東都歳事記によれば「富士参り」でした。
月曜日は『花燃ゆ』、火曜日は「模試正解」について書いた関係で、2日遅れとなりますが、「富士参り」について書いてみます。
6月1日は、富士山の山開きで、江戸の各所にあった富士塚に大勢の人がお参りしたようです。
まず、東都歳事記をお読みください。
六月朔日
○富士参り 前日(五月晦日)より群集す。是富士禅定の心とぞ。駿河国富士山は、常に雪ありて登る事を得ず。故に、炎暑の時を待て登山す。是にならひに今日参詣するなり。
続いて守貞謾稿には次のように書かれています。
五月晦日、六月朔日ノ両日
江戸浅草、駒込、高田、深川、目黒、四ツ谷、茅場町、下野小野照(以上八所、ともに江戸の地名也。ともに富士山を模造して、浅間の神を祭れり。平日は、此模山に登ることを聴(ゆる)さず。此両日のみ、詣人を登す。蓋、駒込を江戸の本所とす)等の富士詣でと号して、群参す。
江戸からは富士山が良く見えました。その高さや山容から富士山は江戸の人たちの憧れと尊敬の的でした。
葛飾北斎が「富嶽三十六景」を描きそれが評判となったのも、江戸に住む人たち富士山に寄せる思いがあったからだと言われています。 こうした富士好きの江戸の庶民の間に富士信仰という民間宗教が生まれ、多くの富士講が出来ました。
講というのは、ある信仰を共通にする人たちが集まって、祈ったり参詣をすることを言います。
富士講のほか、大山講、伊勢講、金毘羅講といった講がありました。
富士講は、先達・講元・世話人の三役によって運営されました。
講では、毎月一定の夜に集まり月拝みを行い、登山費用を月賦で積立てました。
そして、毎年、交代で講の中から代表者が富士山に登りました。
しかし、実際に富士山に登るのは大変なので、多くの人々は、近くにある人工の富士山(富士塚)にお参りしました。
安永8年(1779)に造られた高田の水稲荷境内の富士塚は大変評判になっただそうです。
その後、各地に富士塚が作られました。
江戸には多くの富士塚が作られました。
前記の守貞謾稿には8カ所の富士塚が書かれていました。
東都歳事記には、
浅草砂利場、富岡八幡宮境内(最下段挿絵)、鉄砲洲稲荷境内など多くの富士塚が書かれています。
その中で、特に詳しく書かれているのが駒込にある富士神社です。
次のように書かれています。
駒込(別当本郷真光寺)『江戸名所記』にいふ「この社は百年ばかりそのかみは、本郷にあり。かの所に小さき山あり。山の上に大なる木あり。其木のもとに、六月朔日に大雪ふりつもる。諸人此木の本に立ちよれば、必ずたゝりあり。此故に、人みな恐れて、木の本に小社を造り、時ならぬ大雪ふりける故を以て、富士権現を勧請申けり。其より、年ごとの六月朔日には、富士参とて貴賎上下参詣いたせしを、寛永の初めつかた、此所を賀州小松の中納言拝領ありて、下屋敷となる。今も尚其の社の跡残りて、毎年六月朔日に神事あり」云々。(後略)
駒込の富士神社は、元は本郷の加賀藩江戸屋敷のあった場所(現在の東京大学本郷キャンパス)にありました。
しかし、寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移しました。
下図は、東都歳事記の挿絵「富賀岡富士参」です。
富岡八幡宮にあった富士塚にお参りする人々が描かれています。
富士講のメンバーが実際に富士山に参詣する様子は、菊池貴一郎の「絵本風俗往来」にわかりやすく書いてあります。
「(前略) 毎年6月前より富士登山をなす。一講にて6,7人より3人位ずつなり。何れも先達の指図を守り。道中の辛苦よりは登山の艱苦を嘗めるは、冥利冥加を弁え、身の奢侈をつつしむなどの実地修業なり。心中また種々の禁制ありて、心の穢れを清む。六根清浄の御山の有難きを覚ゆるとかや。(後略)」
また、実際に登山する時だけでなく、登山の前から富士講の人たちは講中の有志の家に集まりました。その様子も「絵本江戸風俗往来」に書かれています。
「謹沐して、行衣とて登山に着せし衣類をまとい、鈴を打ち振りながら、富士山の御詠歌を唱う。この祈祷、とかく人の心をして、もろもろの障りを払い、家内のけがれを除くごとく感じて、ありがたく覚えたり。(後略)」
すごく熱心だった様子がわかります。