皆さん、「富士講」って知っていますか?
名前は知っている方が多いと思いますが、どんな組織かというのは話題になることは少ないように思います。
しかし、今年の江戸検のお題「江戸の祭礼と歳事」では、この「富士講」も問題範囲の中です。
そこで、今日は「富士講」の由来について書いてみます。
富士講については、江戸検の参考図書「江戸の祭礼と歳事」そして「江戸学事典」に詳しく書かれていますので、それを参考に書いていきます。

江戸時代後期には「江戸八〇八講」と呼ばれるほど「富士講」が隆盛を誇りました。
江戸で富士講をこれほどまでに発展させて中心人物は「食行(じきぎょう)身禄(みろく)」という人物でした。
「食行(じきぎょう)身禄(みろく)」は通称「伊藤伊兵衛」という伊勢出身の油商人でした。
17歳のとき、富士講の五世行者月行に出会って富士信仰に入り、富士登山45度という大行者でした。
「食行(じきぎょう)」とは、「食は元なり」という信念を表した名前で、「身禄(みろく)」というのは釈迦入滅後の56億7000万年後に地上に現れるとされている『弥勒菩薩』にちなんだ名前です。
「食行身禄」は、従来の呪術的な加持祈祷で人を驚かす方法ではなく、
「人は心を平らにして、正直・慈悲・堪忍・情・不足を旨とし、各々の家職を熱心につとめるならば末の世は神の加護により倖せを得る」
と言って説いて回りました。
享保17年、西日本に大飢饉が起こり、享保18年には、江戸で初めての打ちこわしが起こり、米問屋の高間伝兵衛の店が襲われました。
食行身禄は、庶民の食を奪った政治に反発し、世を救うために入定(にゅうじょう:宗教的自殺)することを決意しました。
享保18年、食行身禄は富士山の烏帽子岩で断食入定を始めました。
そして、高弟の田辺十郎右衛門父子に「三十一日の巻」を口述し、約一ヵ月後の7月13日に絶命しました。
遺骸はその場に埋葬され、現在は身勒神社がたっているそうです。
食行身禄入定の知らせは、十郎右衛門によって江戸に伝えられ、市中では瓦版が出たといいます。
食行身禄の死後、江戸で、富士講は爆発的に拡大していきました。
この勢いに怖れをなした幕府は度々禁令を出して弾圧を試みましたが、俗に「江戸八百八講 富士講八万人」と呼ばれるほど隆盛を誇るようになりました。

