「江戸神仏願懸重宝記」の4回目は「幸崎甚内」をご紹介します。
「江戸神仏願懸重宝記」には「幸崎甚内」と題して、鳥越橋で瘧(おこり)の願懸けをすると書いてあります。
瘧というのは、現在のマラリアのようです。
鳥越橋は鳥越川にかかっていた橋で、別名「甚内橋」と呼ばれています。
鳥越川は、不忍池から忍川をへて、三味線堀に落ち隅田川に注ぐ川で、今の蔵前通りと並行して流れていました。
しかし、鳥越川は、現在は暗渠となっていて川の流れはありませんが、道路の十字路の東南角には甚内橋跡の石碑があります。(右写真)
鳥越橋つまり「甚内橋」は、JR浅草橋駅から徒歩5分程度の所にあります。
鳥越神社の南側にあります。
鳥越川は東西に流れていましたので、甚内橋は南北に架けられていたと思われます。
この橋が、「甚内橋」と呼ばれるのは、付近に甚内神社があったからだといわれています。
甚内とは人の名前で高坂甚内といいます。
高坂甚内は、武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱した人物だと神社脇の説明板に書いてあります。
「江戸神仏願懸重宝記」では、幸崎甚内と書いてあり、江戸時代の本では、向坂甚内と書いてあるものもあります。
この甚内は瘧で苦しんでいたところを取り押さえられました。
そして、刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたといわれているようです。
「江戸神仏願懸重宝記」によれば、鳥越橋から自分の年齢を記した紙を川に流し瘧(おこり)が治るように願懸けし、平癒後は竹筒の水や茶を流し供えると書いてあります。
赤が甚内神社です。青が甚内橋跡です。
鳥越神社がピンクです。