今日は、日枝神社の境内をご案内します。
山王男坂は、右写真の通り非常に急な石段で、53段の石段があります。
一方左側の坂はいくらか緩やかな坂で女坂と呼ばれますが、江戸時代には将軍社参の時だけ使用されたことから御成坂とも呼ばれたそうです。
山王男坂を登りきった先にある門が神門です。
神道において、祭神を守る者として安置される像のことを「随身」といい「随神」とも書かれます。また、門守神(かどもりのかみ)とも言われます。
神社の門のうち、門の左右に随身像を安置した門は「随身門」と呼ばれます。
日枝神社の現在の神門には随身が祀られています。
神門は、昭和20年の空襲で社殿とともに焼失してしまい、戦後再建されたものです。
戦前の神門の貴重な姿が下の絵葉書と写真です。
この貴重な画像は日枝神社様よりご提供いただきブログへの掲載をご許可いただいたものです。
ご尽力いただいた権禰宜伊久裕之様に紙上にて厚く御礼申し上げます。
山王男坂の下から見上げた楼門(現在の神門は、戦前は楼門と呼んでいたそうです)
楼門の絵葉書です。楼門と呼ぶのに相応しい風格がある建物ですね。
神門の裏側には神猿の像が安置されています。
日枝神社では、この神猿を「まさる」と呼び『魔が去る』または『勝る』として縁起の良いものとされてきました。
日枝神社の神使である神猿は鳥帽子をかぶり、御幣をかついでいます。
社殿の前にも神猿がありますが、社殿前の「まさる」は御幣をもっていません。
「まさる守」というお守りも授与されています。
正面にある社殿は昭和33年造営されたものです。
戦前までは、万治2年に造営された社殿があり、国宝に指定されていましたが、昭和20年5月の空襲により、末社山王稲荷神社を残し全て焼失してしまいました。
そこで、しばらくの間は、山王稲荷神社を仮殿としました。
現在の社殿は鉄筋コンクリート製で、本殿の大きさは焼失前のものと同じ大きさだそうです。
下の写真も、日枝神社様から掲載を許可いただいた戦前の御社殿の写真です。
現在は、神門の正面に拝殿が見えますが、戦前は拝殿の前に中門があったことがわかります。
社殿の北側に、山王稲荷神社があります。
この山王稲荷は、山王権現が半蔵門外から遷座してくる前に、星岡にあった福知山藩主松平忠房の邸内に祀られていた屋敷神だったと言われています。
この山王稲荷の社殿は万治2年に日枝神社が半蔵門外から遷座した際に、日枝神社の社殿とともに建立されたものと考えられています。
昭和20年の空襲では、日枝神社社殿が焼失してしまいましたが、山王稲荷の社殿だけが被害を免れて残りました。
山王稲荷社本殿は、千代田区によって文化財に指定されています。
山王稲荷神社の前に安置されている狛犬は千代田区の有形民俗文化財に指定されている狛犬です。
この狛犬はもともと文政3年(1820)に、神田明神に鎮座していた南伝馬町天王社に奉納されたものです。
しかしその後、明治18年に神田神社周辺で起きた火災により天王社本殿その他が焼失してしまいました。
そのため、南伝馬町の氏子たちが、明治19年に新たに日枝神社境内に鎮守として八坂神社を勧請しました。
それが、現在は山王稲荷神社と並んで鎮座している八坂神社です。
右上写真で、山王稲荷神社の右手に写っているのが八坂神社です。
八坂神社が勧請された時点では、この狛犬は神田明神境内にあったと考えられていますが、明治34年になって、石製燈籠などその他の南伝馬町天王社に由来する旧来の石造物と一緒に日枝神社境内に移転され、再設置されたと考えられています。