今日は、江戸検のお題に関する今年最後の模擬試験を出題します。
夏の江戸検では、2級3級のみとはいえ、参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」から、ほとんどの問題が出題されています。
そこで、今回は、参考図書から、全問題を出題します。
参考図書の総復習として利用下さい。
従来出題していない項目からも出題したため、問題数が15問となっています。そのため、今年の模擬試験問題は、総数で105問出題したことになります。
いくらかでもお役にたったのなら幸いです。
正解は、来週火曜日にアップします。
1、山王権現と山王祭について書いた次の説明で正しいものはどれでしょう?
①山王権現の神領は、徳川家康が五石、2代将軍秀忠が百石を寄進し、さらに3代将軍家光が五百石を寄進し、合計で650石であった。
②山王祭の行列が初めて江戸城内に入ったのは元和元年で将軍秀忠の時である。
③山王祭の行列は山車行列の途中に神輿をはさむ形式であった。
④御雇祭は、幕府が氏子以外の町に命じて出させる出し物である。
2、天下祭は、大規模な祭礼であったため、幕府も取締を強化していました。
天下祭の取り締まりについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①祭礼番付は、事前の取り決め通り祭礼が行なわれているかチェックするものだった。
②天下祭では、町奉行所は祭礼取扱掛名主を任命し氏子町の出し物全般を監督させた。
③町奉行所の祭礼出役は山王・神田・赤坂氷川の祭礼当日、行列の巡行に際して取り締まりを行なうのが主な任務だった。
④天下祭の行列の江戸城内への繰り入れには目付が立ち会った。
3、浅草蔵前の牛頭天王の祭礼は、6月8日に行われました。
神輿には、榊と四神鉾の行列が加わり、氏子の家々では団子を付けた笹を神前に奉納しました。
この祭礼のため、浅草蔵前牛頭天王は、別名で呼ばれましたが、その別名は次のどれでしょう?
①榊天王 ②四神天王 ③笹天王 ④団子天王
4、富くじについての次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①江戸で富くじが最初に行われたのは谷中感応寺であった。
②「御免富」が開始された時の将軍は8代将軍吉宗だった。
③「銭富」から「金富」へ移行された元文~宝暦期の富札1枚の販売価格は金一分であった。
④「江戸の三富」(感応寺・目黒不動・湯島天神)で富くじが開始されたのは、輪王寺と寛永寺の経営を救済するためだった。
5、相撲について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①勧進相撲は集客力の高い寺社で行われ芝神明宮でも行われたことがある。
②当初、勧進相撲には土俵がなく人垣のなかで取り組みをした。
③土俵に近い土間より桟敷席が高級な席であった。
④同部屋対決や同じ藩の抱え力士同志の取り組みはなかった。
6、寄席は江戸っ子に大変人気があり、天保の改革直前には211軒の寄席が確認されているほどでした。
それでは、寄席について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①文政~天保期の寄席は、昼夜交代制で7日目が区切りだった。
②天保の改革で、出し物は神道・心学・昔噺に限られた。
③天保の改革では江戸市中の15か所と、9か所の寺社境内での営業だけが認められた。
④天保の改革では寺社における寄席は各々1か所に制限されたが、浅草寺だけは3か所の設置が許可された。
7、浅草は吉原が近くにあるうえに、新たに造成された猿若町に江戸三座が移転させられました。そのため、浅草は、聖と俗の渾然とした町でした。
これについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①スイスから来日したエメェ・アンベールは、浅草寺に吉原遊女たちの絵馬が飾られていることに興味を抱いた。
②吉原の仮宅が浅草寺と関係のある町に設置されたこともある。
③浅草寺は、参拝客が増えるので、当初から浅草に江戸三座が移転してくることに賛成していた。
④猿若町に移転後の中村座の初日に上演された演目は浅草寺に伝わる伝説をもとにした「金龍山誓礎(きんりゅうざんちかいのいしずえ)」だった。
8、「江戸神仏願懸重宝記」には、いろいろな願懸け対象が載っています。
それを中心に願懸けの方法として供物・断ち物・返礼などを決められた方法で行われたものがあります。次の組み合わせで間違っているのはどれでしょう?
①「錐大明神」- 3年間「鰯・ひしこ・ごまめ・たたみ鰯」などを口にしない。
②「源覚寺」- 願懸けする際に、「こんにゃく」を供える。
③「笠森稲荷」- 米の団子を供えて疱瘡平癒を願う。
④「高尾稲荷」- 祠に供えられた櫛を借りて、平癒後は櫛を倍にして奉納する。
9、「江戸の稲荷大明神番付」は、天保期ごろの江戸市中の稲荷を格付けしたものです。
行事は、妻恋稲荷など5稲荷で、勧請元は王子稲荷となっています。
それでは、西之方の大関となっている稲荷は次のどれでしょう?
①三囲稲荷 ②鉄砲洲稲荷 ③能勢稲荷 ④下谷稲荷
10、江戸時代も幕末に近づくと異国船の接近が頻発したり天保の改革が失敗するなどして、漠然とした社会不安のなかで流行神現象が起こりました。
嘉永2年には複数の神仏が流行神となりましたが、次のなかで嘉永2年の流行神でなかった神仏はどれでしょう?
①半田稲荷 ②翁稲荷 ③正受院の奪衣婆 ④お竹大日如来
11、伊勢参りについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①伊勢御師は、いわば旅行斡旋業者であるが、伊勢神宮の神職だったものが商人化したもので、大神宮の御札が最大の収入源だった。
②伊勢参りする女性は嫁に家の実権を譲った40代~50代の人が多かった。
③オランダ商館の医師エンゲルベルト・ケンペルは、抜け参りの様子を「江戸参府旅行日記」に書き残した。
④犬だけの伊勢参りも行われ、1年ほどかけて会津の白犬が伊勢にお参りし帰国した例も記録されている。
12、富士講について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①江戸で富士講を拡大させたのは食行身禄(伊藤伊兵衛)である。
②富士講は江戸庶民に熱狂的に迎え入れられ、俗に「江戸八百八講、信者八万人」と呼ばれた。
③江戸の富士塚の初めは、高田藤四郎らが10年近くかけて築いた「高田富士」である。
④富士山の山開き(7月1日)には多くの参拝客が富士塚を訪れた。
13、佐倉惣五郎義民伝説について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①惣五郎は佐倉藩領の村役人で藩の苛政を3代将軍家光に直訴した。
②惣五郎を祀る「口の明神」が建てられた場所は平将門が城を築いた地とされている。
③惣五郎の百回忌に「宗吾道閑居士」の諡号を与えたのは堀田正亮だった。
④神田明神に祈願した時にみた夢に導かれ3代目瀬川如皐と佐倉に出向いて「東山櫻荘子」をつくった歌舞伎役者は市川小団次である。
14、江戸では特徴のあるさまざまな祭礼と歳事が行われました。その特徴ある祭礼・歳事について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①水天宮参り ― 参詣者は水難除け・安産を願い、錠または錠と椿を描いた額を納めた。
②湯島天満宮祭礼 ― 砥餅という砥石の形の餅を神前に供え氏子にも配った。
③佃島住吉明神祭礼 ― 2体の獅子頭が巡行し神輿を海中に担ぎ入れた。
④王子権現祭礼 ― 参詣人は神前に小さな鎗を納め、ほかの人が納めた鎗を火災盗難除けの守りとして持ち帰った。
15、日本全国で江戸時代に起源・由来をもつ祭礼が現在も多く行われています。
その祭礼について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?
①和歌祭 ― 紀州東照宮の完成の翌年元和8年に、紀州藩主の徳川頼宣が、徳川家康の霊を慰めるために行ったのが最初の紀州東照宮の大祭
②津和野の鷺祭 ― 戦国時代に起源を持ちながら一時中断していたものを寛永20年に津和野藩2代藩主亀井茲政(これまさ)が復活させたもので、弥栄神社の例大祭で奉納される。
③小倉祇園太鼓 ― 元和4年の干ばつ・疫病・水害を憂えた小倉藩主小笠原忠真が八坂神社に参籠したところ平穏を取り戻したためお礼として催したことに始まる八坂神社の例大祭
④長崎くんち ― 寛永11年に二人の遊女が神前に謡曲「小舞」を奉納したことに始まる諏訪神社の秋季大祭