土曜日の「鬼平散歩in鉄砲洲佃島」では、鉄砲洲稲荷神社をご案内しましたが、鉄砲洲稲荷神社は、江戸検の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されてある神社ですので、今日は詳しく紹介しようと思います。
鉄砲洲稲荷神社は、「八丁堀駅」から約5分の所にあります。
鉄砲洲稲荷神社は、古い歴史をもつ神社ですが、何度も遷座しています。
社伝によれば、平安時代初期の承和8年(841)に江戸湾の奥にお祀りしたのが最初のようです。
その後、埋め立てが進行して、現在の京橋のあたりへ遷座し、さらに室町末期の大永年中に今の新京橋の近くに遷座し、八町堀稲荷神社と呼ばれました。(私見ですが、八丁堀が築造されたのは、徳川家康が江戸に入府した後ですので、それ以降に八丁堀稲荷神社と呼ばれたものと思います)
その後も埋め立てが進行して海岸が東へ移りましたので、寛永元年には鉄砲洲に遷座しました。
鉄砲洲といっても、現在の場所ではなく、八丁堀と現在の亀島川の合流点の南岸です。
鉄砲洲の由来については2説あります。
一つは地形説です。徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口の島だったので、その名がついたという説です。
右上の幕末の切絵図の本湊町から明石町まであたりが鉄砲洲ですが、確かに鉄砲の形にみえますね。
もう一つは、寛永のころ、幕府の鉄砲方井上氏と稲富氏により、ここで大砲の試射場があり、射撃演習をしていたので、この名が生まれたという説です。
江戸時代の鉄砲洲稲荷神社は、広重の名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」と「江戸名所図会」に描かれています。
右が名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」です。
手前の帆柱の奥左手に赤く描かれているのが鉄砲洲稲荷神社です。
その右の橋が、八丁堀に架かっていた「稲荷橋」です。
稲荷橋は、鉄砲洲稲荷のそばにあるので稲荷橋と名付けられたと思われます。
現在は、道路脇に「稲荷橋」の橋標が残されています。
下の絵が「江戸名所図会」に描かれている鉄砲洲稲荷神社です。
「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも掲載されています。
お持ちの方は、そちらもご覧ください。
鉄砲洲稲荷が稲荷橋の橋詰にあることや南を向いていたこと、富士塚もあることがわかります。
江戸時代、鉄砲洲の先の隅田川河口は、江戸第一の港で、江戸で消費する米などの物資を運ぶ船のほとんどが集まってきました。そのため、鎮座地周辺は江戸湊と呼ばれました。
そこで、鉄砲洲稲荷神社は、湊神社とも湊稲荷とも呼ばれました。
鉄砲洲稲荷は、江戸時代は大変有名なお稲荷さんで、お稲荷さんの番付でも西の大関に位置づけられるほどのお稲荷さんでした。
このことは、「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されています。
鉄砲洲稲荷神社 が、現在地に移転してきたのは、明治元年です。
江戸時代の鎮座地が川のすぐそばであったので、水の被害が少ない場所に移転したいといった事情もあったようです。
社殿の西北隅に富士山の溶岩で築いた富士塚があります。
ここの富士塚は、寛政元年9月に富士講の人たちが、稲荷橋のたもとにあった場所にお祀りされたものです。
明治になって、鉄砲洲稲荷が遷座したのに伴い、明治7年にこちらに移り、その後、何度か移転を重ねたうえで、昭和3年にここに造られました。
高さは5.4メートルあります。
東日本大震災で被害を受けたため、現在は、登拝禁止となっていますが、近いうちに修復工事が開始される予定です。