先日の「鬼平散歩(in鉄砲洲・佃島)」では、「祭りだわっしょい! 江戸の祭礼と歳事」に載っている「住吉神社」もご案内しました。
そこで、今日は「住吉神社」をご紹介します。
ところで、江戸検を受検される方も「祭りだわっしょい! 江戸の祭礼と歳事」のどこに載っているのという疑問のある方もいると思いますが、157ページに小さく「佃島住吉明神祭礼」として載っています。(念のため)
住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
徳川家康が上方にのぼった際に、神崎川を渡れずに難渋していた時、佃村の漁師が漁船をだして助けたことから、徳川家康が江戸に入府した際に江戸に招かれて、江戸湾での漁業の特権をえたと言われています。
この佃村から来た漁師たちが、正保元年に幕府から鉄砲洲東側の干潟を拝領し、その半陸地を埋め立て陸地としました。そして、故郷に因んで「佃島」と命名したと伝えられています。
そして、正保3年には、佃村の鎮守であった住吉神社を勧請しています。
住吉神社というとすぐに思い起こすのが、現在の大阪市住吉区にある住吉大社ですが、佃島の住吉神社は、住吉大社から直接分霊を受けて勧請したのではなく、佃村の住吉神社を勧請したようです。
現在、昔の佃村の住吉神社は、田蓑神社と名前を変えているようです。
住吉神社は、江戸時代には「住吉明神」と呼ばれていました。
「江戸名所図会」には、「住吉明神社」として次のように書かれています。
佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ、神主は平岡氏奉祀す。正保年間、摂州佃の漁民にはじめてこの地を賜りしより、ここに移り住む。本国の産土神なるゆえに、分社して、ここにも住吉の宮居を建立せしとなり。(後略)
その祭礼は「佃祭」とも呼ばれていました。
「佃祭」は、歌川広重「名所江戸百景」の「佃しま住吉の祭り」にも描かれていますし、落語に「佃祭」という演目にもあるぐらいですので、昔から有名だったのだと思います。
佃祭は、江戸時代には、6月28日と29日に祭礼が行われました。
これは、住吉神社が鎮座したのが正保3年の8月29日であったことによるそうです。
また、東都歳事記によると、龍虎の頭と神輿の海中渡御が有名だったようです。
六月二十八日 佃島住吉明神祭礼
今明日修行(神主平岡氏 、小の月は名越祓と同日なり、龍虎の頭渡す。二十九日未の刻、神輿を海中に舁き入れ奉る) (後略)
龍虎の頭は、現在も残されていて、住吉神社近くの展示館に展示されていて、常時見ることができます。(右上写真)
また、広重の「佃しま住吉の祭り」をよくみると海中に神輿が向かっていく様子が描かれています。
中央の幟旗の左手奥に神輿が見えます。
この絵は、住吉神社の境内から海方向を見て描かれています。
ですから、神輿が海に入ろうとしている場面だと思います。
住吉神社の神輿は「八角神輿」と呼ばれる八角形の神輿です。
八角神輿は、東都歳事記には「八角形」とは載っていないのですが、江戸時代のものが社殿奥の御神輿庫に展示されています。
説明板によると、天保9年(1838)に芝大門の万屋利兵衛により製作されたそうです。
八角の神輿は関東では珍しく、天皇の高御座を模したと言われています。
現在の住吉神社の例祭は毎年8月6日、7日に行なわれます。
しかし、3年に1度行われる本祭りは、8月6日7日に近い土曜日曜を含む4日間行われます。
この時、獅子頭の宮出しや八角神輿の宮出し、神輿を船に載せて氏子地域を廻る船渡御が行なわれます。
現在は、江戸時代のものは文化財として保存するため、新しい八角神輿が作られ渡御しています。
昭和37年までは海中渡御が行なわれていたそうですが、現在は、船渡御となっています。
You Tubeに今年の「佃祭り」の様子が投稿されていました。
それによると、八角神輿が住吉神社の鳥居を通って担がれ、人足寄場跡を示す灯台がある佃公園の岸から船に乗せられた渡御していました。