「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」に書かれている能勢稲荷と半田稲荷を夏に訪ねていましたが、まだ、このブログに書いてないので、まとめて書きます。
鷗稲荷は、錦糸町から徒歩12~13分の距離にある能勢妙見山東京別院の境内に鎮座しています。
能勢妙見山東京別院は、関西の能勢妙見山の東京における別院です。
能勢妙見山東京別院は、旗本能勢頼直の本所の下屋敷に、安永3(1774)年に建立し妙見大菩薩のご分体をお祀りしたのが始まりだそうです。
鷗稲荷は、江戸時代には、外神田にあった旗本能勢家の上屋敷に鎮座していました。
能勢家の上屋敷は、切絵図をみると津藩藤堂上屋敷の東側にありますので、現在でいうと秋葉原駅の東側にあったことになります。
この鷗稲荷は、狐憑きに霊験があるといわれ、ここで出される札は、表面を黒く塗りつぶした札で「能勢の黒札」と呼ばれていました。
この札は、狐に憑かれないように、あるいは憑いた狐を払う効果があるとして人気があったと「江戸の祭礼と歳事」に書いてあります。
半田稲荷は、金町駅から徒歩10分程度で住宅街の中に鎮座しています。
半田稲荷の創建は、和銅4年(711)とも永久年間(1113~17)ともいわれています。
和銅4年とすると1300年も前に創建されたという古い神社です。
この神社が、疱瘡や麻疹に霊験があるとして広く信仰された神社です。
金町は、現在では、上野からそれほどかかりませんですが、江戸時代は徒歩ですので、一日がかりだったと思います。
しかし、麻疹流行のたびに多くの人がお参りしました。
半田稲荷は、赤い衣装を身に付けた「願人坊主」が、赤い幟を持って鈴を鳴らしながら江戸市中を廻りました。
この「願人坊主」は、「江戸の祭礼と歳事」によれば、疱瘡にかかっていない子どもがいる家の前で、いくらかの金銭で稲荷の真言を唱え、祝言を述べて踊り、病除けの一文人形を置いていく、一種の芸人だったようです。
半田稲荷の境内には、願人坊主が神仏に祈願する際に水垢離した神泉遺構が残されています。
井戸枠には注連縄(しめなわ)が掛けられています。
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青印が半田稲荷神社です。
周囲の石柵の柱をよくみると、市川団十郎・尾上菊五郎など新富座の役者の名前も刻まれています。
赤印が能勢妙見東京別院です。
この境内に能勢稲荷(翁稲荷)があります
青印が半田稲荷神社です。
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