火曜日に行われた江戸検ですが、夏の江戸検講座や江戸楽アカデミーを受講いただいた方から、受検結果について、次々とご連絡をいただいています。
それを読ませていただくと、「自己採点したら、とりあえず80点を超えました」という方も複数いらしゃいます。
80点を超えた方、本当におめでとうございます。
一方、「80点に届かずショックです」という方や「来年頑張ります」という方もいらしゃいます。
合格点に届かなかった方は残念な思いが強いと思いますが、来年の合格をめざしてまた頑張ってください。
でも、とりあえずは、一休みでよいのではないでしょうか。
ゆっくり休息した後、また準備を始めてください。
さて、今日は、江戸検の話題から離れて「人足寄場」の話です。
といっても、今年の江戸検1級には「人足寄場」の問題が出題されていましたね。
先日の「鬼平散歩イン鉄砲洲佃島」では、いわゆる「石川島人足寄場」が、ご案内のメインでした。
そこで、人足寄場については、あまり知られていないことが多いように思いますので、今日から何回かに分けて、「人足寄場」について書いていきます。
「人足寄場」は、佃島のそばにありながら、「石川島人足寄場」とも呼ばれます。
では、なぜ「石川島」というと地名がつくのか?
そのことについて書いていきます。
江戸時代に佃島と呼ばれたところは、現在は「佃1丁目」です。
そして、「人足寄場跡」は、現在は「佃2丁目」です。
また、現在は、人足寄場跡は、佃島からは、川幅の狭い佃堀に架かった小さな橋(住吉小橋)を渡った場所にあります。
そのため、人足寄場も佃島にあったように思いがちです。
そうしたことから、「人足寄場に、なぜ『石川島』という名前が冠されるのか」と疑問に思う人もいると思います。
人足寄場は、佃島に造られたのではないのです。
佃島は、正保元年(1644)に、摂津国佃村の漁師が、幕府から拝領した隅田川の寄州を埋め立てて築いた島です。
一方、石川島は、江戸時代初期には、すでに隅田川の河口にありました。つまり、石川島の方が、早くから島として存在しました。
人足寄場は石川島と佃島の間の浅瀬を埋め立てて築いた土地に設置されました。
ですから佃島ではないのです。
石川島は江戸時代初期には「森島」または「鎧島」と呼ばれたと江戸名所図会に次のように書かれています。
鎧島 佃島の北に並べり。いま、石川島と号(なづ)く(俗に、八左衛門殿島といへり。皆、大猷公(徳川家光)の御時、石川氏の先代、この島拝領するより、かく唱ふるとなり。寛政4年、石川氏、永田町へ屋敷替へありしより、炭置場・人足寄場等になれり)。旧名を森島といふよし、江戸の古図に見えたり(文亀古図)また、その図に記して云く、この島、一名を鎧島と号(なづ)く。(後略)
石川島というのは、3代将軍家光の時代に、旗本石川正次が拝領したため、石川島と呼ばれるようになったようですが、石川正次は、通称八左衛門といったので、「八左衛門殿島」とも呼ばれたようです。
この石川島と佃島の間は、葦が繁る浅瀬だったようです。
そこを埋め立てて陸地としてそこに鬼平が、寛政2年に人足寄場を開設しました。
そのお話は次回したいと思います。
今日は、最後に、人足寄場の時代を飛び越えて、石川島の幕末以降の推移について簡単に書いておきます。
嘉永6年(1653)、ペリーが浦賀に来航し開国を要求しました。
この動きを受けて、幕府の命令により、翌年の嘉永7年、水戸藩が石川島で三本マストの帆船の建造を開始しました。
水戸藩に白羽の矢があったのは、洋式軍艦の製造を徳川斉昭が進言していたことによるようです。
それ以来、石川島には造船所が設置され、軍艦が製造されました。
明治になっても海軍省下で軍艦製造が行われていましたが、明治9年になって、それが平野富二に払い下げられ、東京石川島平野造船所ができました。
これが、現在のIHI(石川島播磨重工業)の前身です。
石川島播磨重工業㈱という会社の名前は聞いたことがあると思いますが、その発祥の地が石川島です。
その工場跡地もいまでは、「大川端リバーシティ21」という超高層マンション群となっています。 右上写真は、「大川端リバーシティ21」の遠景です。

