今日は、「人足寄場」の2回目ですが、「人足寄場」の設立の経緯について書いていきます。
「人足寄場」というのは、無宿人を集めて、仕事を覚えさせる施設です。
難しく言うと「授産更正施設」です。
「人足寄場」が作られた背景には、江戸時代後期の治安の悪化がありました。
長谷川平蔵宣以が火付盗賊改めを命じられた時代、江戸では無宿人が増えつづけました。
人別帳から削除されるケースは、貧窮により村を離れたり、久離や勘当により親族関係が断絶した場合、追放刑による場合などがあります。
無宿人が最も増えたのが天明6年・天明7年の頃だったとされています。
当時は、冷夏・風水害・火山の噴火などが続き、農村が疲弊し、農村での生活ができない人が村から逃げ出して江戸に流れ込んでいました。
こうした状況の中で、天明7年5月20 日、江戸で打ちこわしが起きました。
「天明の打ちこわし」と呼ばれ、三大打ちこわしの一つに数えられる大きな打ちこわしです。
この打ちこわしでは、町奉行所では取り鎮めることができず、先手組が出動する事態となりました。この時、長谷川平蔵宣以も出動し、見事、打ちこわしを取り鎮めきました。
この天明の打ちこわしにより、田沼意次体制が完全に崩壊し、天明7年6月松平定信が老中となります。
松平定信は、無宿人対策に取り組みはじめ、寛政元年頃、無宿人対策について意見を求めました。
この際に、平松義郎「人足寄場の設立と変遷」によれば、長谷川平蔵宣以が、無宿人収容施設の構想について意見を述べ、その収容施設を引き受ける意思を伝えたと書かれています。
そして、長谷川平蔵宣以は2回にわたり上申書を提出し、収容施設の位置、作業、教誨、懲戒などについて意見具申しています。
そして、寛永2年2月19日に正式に収容施設の設立を命じられています。
新しく設立される収容施設は「加役方人足寄場」と命名されています。
「加役方」とは「火付盗賊改」ということですので、「火付盗賊改」の管理下にあるという意味だそうです。
長谷川平蔵宣以は、火付盗賊改のまま、寄場の責任者となりました。これを指して瀧川政次郎「長谷川平蔵」によれば「寄場取扱」を命じられたと書いてありますが、平松義郎氏によると「平蔵の寄場主管たる職を特称して寄場取扱と呼んだ説明があるが、そういった職名はない」そうです。
「人足寄場」は、隅田川河口にある石川島周辺を埋め立てて建設することになりました。
なぜ、川の中の小島が選ばれたかというと、逃亡を防ぐためです。
松平定信に提出した上申書で、長谷川平蔵宣以は、逃亡を防ぐことができることなどの条件をあげたうえで、深川の長州藩の抱え屋敷を候補地として挙げましたが、最終的には石川島となりました。
隅田川の真ん中にある石川島が選ばれたのは、収容した無宿人たちの逃亡を防ぐためです。
そして、埋め立てに使用された土は三俣(股)の土でした。
三俣(股)は、浜町の先にあった隅田川の中洲で、月見の名所として知られていました。
この中洲が、明和8年(1771)に馬込勘解由により埋め立てられ、安永2年(1774)に三股富永町が造られ、間もなく料理茶屋などが建ちならぶ一大歓楽街となり繁栄しました。
天明7年(1787)に吉原が全焼した際には、三股富永町での仮宅営業が認められたため、隠し売女が多くなり、江戸の風紀を乱す場所となりました。
さらに、この埋め立てにより、隅田川の水はけが悪くなり洪水が起きるようになったという意見があり、三股富永町の取り払いが検討されました。
そうした時期に、寛政の改革が開始され、その倹約令、緊縮政策の影響もあって江戸っ子に人気のあった一大歓楽街の中洲は取り壊されることとなりました。
松平定信は、三股富永町の建物を取り壊すだけで、柳川藩立花左近将監を助役とした大規模な川浚いを命じ中洲自体を破却しました。
そして、川浚いで出た土砂を使用して佃島と石川島の間の葭が生い茂っていた浅瀬1万6030坪余の土地が埋め立てられました。
そこが人足寄場の用地となりました。
そして、埋め立てた後は、隅田川沿いにしっかりした岸が必要になりますが、その護岸工事の材料として、長谷川平蔵宣以は、江戸市中のお寺の無縁仏の墓石を利用したそうです。
今日は、この辺にします。次回は、「人足寄場」で行われていた作業などについて書いていきます。


