今日は、人足寄場の運営がどう行なわれていたか書いていきます。
無宿人というのは、人別帳に記載されていない人ですが、「人足寄場」に収容されたのは、当初は罪を犯していない無宿人や入墨等の軽い刑を受けた人でした。
人足寄場では収容した者には男女問わず柿色に水玉を染め出した衣服を着させまいた。
寄場への収容期間は原則3年でしたが、2年目には水玉の数を減らし、3年目には無地とし、一見して収容年数がわかるようにしました。
「人足寄場」は、授産更正施設ですので、仕事を覚えさせるようにしました。
その作業は、「寄場外の作業」と「寄場内の作業」に大きく分かれました。
「寄場外の作業」は、幕府などが行う土木や普請が主な仕事です。
この「寄場外の作業」は、寄場の建設、神田川や外濠の川浚いや牢屋敷用の精米、そのほか、武家・町方の普請・修繕がありました。
この「寄場外の作業」は無罪の無宿人が行いました。
「寄場内の作業」では、左官、屋根葺き、鍛冶、炭団作り、紙漉き、表具、蝋燭作り、桶作り、竹笠つくり、貝細工、足袋作り、草履作り、米搗き、ちんこ切り(タバコの葉刻み)や髪結いなど、女には洗濯、裁縫、雑巾刺し、機織りなどの作業が行われていたようです。
そのなかで、石灰・炭団・再生紙の製造が重要な仕事でした。
石灰は牡蠣殻から製造し、炭団は幕府木蔵の材木を炭に焼き、その炭で炭団を作らせました。
再生紙は竹橋御蔵の勘定所の反古紙等を利用して再生紙に漉き返しました。「人足寄場」で漉いた紙は「島紙」と呼ばれて市民の評判がよかったそうです。
天保12年には、「油搾り」が加わりました。
「油絞り」は、当初の長谷川平蔵宣以の案にもありましたが実施は見送られました。「油絞り」は相当の重労働であったため、無罪の無宿人に科すのは不適当と考えられたためだと言われています。
しかし、天保年間になって、有罪の無宿人も「人足寄場」に収容されるようになり、過酷な「油絞り」の作業を科しても支障ないと考えられたようです。
「油絞り」は重労働であるため工賃も高く、「人足寄場」においても大きな収入源となりました。
これらの作業のほか、「外使い」という作業もありました。
これは、買い物等の雑用をするものです。基本的に無罪の人が行いましたが、有罪の者も出所前3か月前からは使用しました。「外使い」には下役同心が同行しました。
作業は原則朝午前8時ごろから午後4時頃まで行われました。
仕事が終わると毎日もしくは隔日に入浴ができました。
休みは、五節句、お盆の7月15・16日、暮れの12月25日から正月3日までがお休みのほか、毎月1日、15日、28日がお休みでした。
江戸時代に、作業時間と休業日が定められている労働というのは珍しいのではないかと思います。
労賃は、製品売却代金の2割を道具代諸費用として差引、残りの3分の1を強制的に積み立て、3分の2を月に3回10日毎に渡しました。
一方で寄場から逃亡した者・徒党を組んだ者は死罪、博奕をした者も死罪、怠ける者や命令に違反する者は遠島と定められました。
「人足寄場」に収容されるのは、基本は無罪の無宿人ですので、それが逃亡したら博打をすると死罪となると言い渡されては静かにしていたことでしょう。
「人足寄場」は、その設立された年には、米500俵・金500両の予算でした。
これもそれほど多いとは言えない額ですが、翌年からは米300俵・金300両になると言い渡されていました。
こうした少ない予算での運営が求められる状況下で、「人足寄場」では、驚くべきことに寄場の経費の多くを自分で調達していました。
平松義郎著「人足寄場の成立と変遷」によれば「人足寄場」の経費の2分の1は幕府から支給されましたが、残りの2分の1は自分たちで稼ぎだしたものです。
それは、寄場の敷地を町人に貸出して地代を稼いだり、蠣殻灰製造請負業者よりの冥加金や油絞りで絞った油の売却代金が主なものです。
地代が約600両、冥加金が約100両、油絞りが約800両という具合だそうです。

