今日は、「人足寄場」の4回目ですが、「人足寄場と心学」について書いてみます。
右下の写真は、佃公園に設置されている説明板です。
人足寄場」には前回書いたように毎月3回の休みがありました。
その休みには、「心学」の講話がありました。
江戸時代は、農業を基礎としていました。いってみれば「重農主義」の社会だったわけで、商業は賤しいものと考えられていました。
こうした考えに対して、商人が社会に必要不可欠な存在であることを説明したのが京都の商家出身の思想家・石田梅岩です。
この思想は「心学」(「石門心学」)と呼ばれました。
「心学」は、身近な例を引いたわかりやすい講話が特徴でした。
そのため、庶民の人たちに歓迎されました。
石田梅岩の死後、その弟子手島賭庵が、さらに「心学」を発展させました。
この上方で始められた「心学」を江戸に下って普及させたのが中沢道二(なかざわどうに)です。
中沢道二は、手島賭庵の弟子です。「道二」は号で、「どうじ」でなく「どうに」と呼びます。
この中沢道二が、「人足寄場」で心学の講話を行いました。
「人足寄場」は、無宿人を更生させる施設ですが、無宿人に対する教化が行なうよう提案したのは長谷川平蔵です。
その教化に利用されるのは、通常に考えれば、仏教か儒教です。
現に、長谷川平蔵宣以の案でも、講和の講師は僧だったようです。
それでは、なぜ「心学」が選ばれたかです。
それは、中沢道二と松平定信との関係があると高中精一氏の「人足寄場と心学」に書かれています。
寛政の改革を進めた松平定信には「信友」と呼ばれる心を許した大名仲間がいました。
「信友」というと、しばしば登場するのが、松平定信政権の中で老中として活躍した本多忠籌、松平信明、戸田氏教らです。
高中精一氏の「人足寄場と心学」のなかには、グループのメンバーは次の15人の大名だと書かれています。
こうした詳細が書かれているのは大変珍しいので、ここに書いておきます。
本多弾正大弼忠籌(ただかず 陸奥・泉)、本多肥後守忠可(播磨・山崎)、奥平大膳大夫昌男(豊前・中津)、堀田豊前守正穀(近江・宮川)、松平山城守信了(出羽・上ノ山)、松平紀伊守信道(丹波・亀山)、松平伊豆守信明(三河・吉田)、松平越後守康致(美作、津山)、加納備中守久周(伊勢、八田)、牧野備前守忠精(越後・長岡)、牧野佐渡守宣成(丹後・田辺)、松平河内守定奉(伊予・今治)、松平大膳亮忠宝(摂津・尼崎)、有馬左兵衛誉純(越前・丸岡)、戸田采女正氏教(美濃・大垣)
この大名たちの中で、播州山崎藩藩主の本多肥後守忠可は、早い時期から「心学」に入門していました。
そして本多忠可が松平定信のグループに「心学」を紹介したと言われています。
その結果、15名のうち8名が自ら心学を修業し、5人の大名が心学を保護奨励したと言われています。
松平定信政権の中枢を占めた、松平定信、本多忠籌、松平信明、戸田氏教が心学の奨励者でした。
そのため、「人足寄場」における教化に「心学」が取り入れられるのは当然ともいえる訳です。
こうして中沢道二によって始められた「心学」講話は、無報酬で行われそうです。
その後、文化元年に大島有隣が心学教諭方となってから銀5枚の給金が支給されたそうです。
また、人足寄場では、幕末まで「心学講話」が行われていたそうです。
先日行われた江戸検の1級の問題に次のような問題がありました。
寛政2年(1790)、石川島に開設された人足寄場は、無宿人や刑を終えたが引き取り人のいない者を収容するための施設です。ここでは毎月3日ある休日に学問の講話が行なわれ、中沢道二らが収容者の教化に努めました。その学問はどれでしょう?
い)朱子学 ろ)心学 は)陽明学 に)蘭学
今日の記事をお読みいただいた方は、正解は言わなくてもお分かりだと思います。
もっとも「江戸博覧強記」にも書かれていますので、この記事を読まなくても正解の方は大勢いらっしゃると思います。


