京都では、烏丸四条近くのホテルに宿泊しました。
そのホテル近くに、今年の江戸検1級に出題された人物ゆかりの地がありましたので、今日、ご紹介します。
今年の江戸検1級に次のような問題が出題されました。
徳川家康の側近御用達だった豪商は、誰でしょう? 初代は家康の「生涯の危機」といわれる「伊賀越え」を助け、3代目は家康に、死去の原因ともされる鯛の天ぷらをすすめたといわれます。
い)鴻池善右衛門 ろ)角倉了以
は)茶屋四郎次郎 に)淀屋辰五郎
正解をお分かりの方が多いと思いますが、「茶屋四郎次郎」です。
この茶屋四郎次郎の屋敷跡がホテル近くの新町通蛸薬師東南角にあるのを見つけました。
真宗大谷派の瑞蓮寺というお寺が目印となりますが、お寺の壁際に説明板が設置されていました。
そこで、早速写真に撮っておきました。
その説明板はかなり詳しく書かれていましたので、それをそのまま書き写しておきます。
茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡
近世初頭、朱印船貿易商・糸割賦商人として活躍、徳川家康の側近として政権確立に大きな役割をはたし、京都商人総筆頭として、角倉・後藤とともに京都三長者と称された茶屋四郎次郎の清延の屋敷跡
清延の三男新四郎長吉は天正14年(1586)上洛した家康に茶屋屋敷ではじめて謁見したが、のち当屋敷を譲られる。
天明8年(1788)京都大火で類焼した。
茶屋家は本名を中島氏といい、中世の名門小笠原貞興の子孫といわれる。清延の父明延は京都に住み、将軍足利義輝が訪れて茶を喫したことから茶屋の屋号が生まれた。
新四郎長吉が慶長19年(1614)家康の命で尾張徳川家に仕え、尾州茶家屋家を創立、本家同様幕府呉服使を拝命する一方尾張藩主に近侍しその召服御用を勤めた。
尾州茶屋家は安南貿易でも活躍、名古屋の茶屋町に広壮な邸宅を営み、江戸にも数カ所の屋敷を拝領、別格で高貴な家柄を誇った。
当地は明治4年まで尾州茶屋家が代々所有していた。
茶屋家について「国史大辞典」に基づいて補足説明します。
江戸検1級の問題に書かれている初代とは、初代清延をいいます。
2代目は清延の長男清忠が継ぎますが、嗣子がいないまま若くしてなくなります。3代目を継いだのが清延の次男清次です。
問題文に書かれている通り、伊賀越えに際して活躍したのが初代清延で、徳川家康は「鯛のてんぷら」を食べてなくなったといわれていますが、この「鯛のてんぷら」を紹介したのが3代目の清次です。
茶屋四郎次郎という名前は、茶屋本家の代々の当主が名のる世襲名です。
茶屋本家の中で特に有名な初代と3代は混同されがちですが別人です。
茶屋家には本家のほかに、尾州茶屋家と紀州茶屋家があります。
尾州茶屋家は、初代四郎次郎清延の三男新四郎長吉が徳川家康の命により尾張徳川家に仕えた家柄で、新四郎を世襲名としていました。
また、紀州茶屋家は、初代四郎次郎の四男小四郎宗清が徳川家康の命により紀州徳川家に仕えた家柄です。
つまり茶屋家には三家あり、それぞれが公儀呉服師として幕府に仕えました。
赤印が茶屋四郎次郎・新四郎屋敷跡です。

