今日は、能勢妙見山東京別院の2回目です。
能勢妙見山東京別院には、今年の江戸検の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」に書かれていた「鷗稲荷」が鎮座しています。
今日は、その「鷗稲荷」について紹介します。
「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」には、概ね次のように書かれています。
鷗稲荷は、もとは外神田の能勢家の上屋敷にあったお稲荷さんで、狐憑きに霊験のあるお稲荷さんとして江戸時代有名でした。
ここで授与されるお札は、狐に憑かれないように、あるいは憑いた狐を払う効果があると信じられたお札で、表面を黒く塗りつぶし、真っ黒なため「能勢の黒札」として有名でした。
鷗稲荷は、山門を入ったすぐそばにあります。
この鷗稲荷についての由来等も能勢御住職様に詳しく教えていただきました。
能勢家23代能勢頼次が、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に徳川方に参陣して戦いました。
しかし、豊臣方の攻撃も激しく、能勢家軍勢は後退をよぎなくされ川べりに追い詰められ、豊臣方の攻撃を防ぐためには川を渡る以外術がないと絶体絶命の危機に陥りました。
この時、能勢頼次は手にしていた刀で川面を斬りました。
すると不思議なことに水が割れて川を渡れるようになり、能勢軍は無事脱出することができたそうです。
そして、川面が割れた際に、鷗が飛び立ったそうです。
こうした奇瑞があったことから「鷗稲荷」と名付けられているそうです。
また、この時に能勢頼次が持っていた刀は「浪切丸」と名付けられたそうです。
幕末の切絵図をみると、「能勢熊之助」と書かれた屋敷が、津幡藤堂家の上屋敷の東側にあります。
現在の秋葉原駅の東側の三井記念病院辺りだと思います。
この上屋敷にお祀りされたのは、明和8年(1771)で、明治35年に、能勢家下屋敷であった現在地に遷座されました。
「能勢の黒札」は、現在でも、4月15日の例大祭および15日に近い日曜日にだけ授与されるそうです。
従って、それ以外の日には授与されません。
授与される日には相応の数の「黒札」が用意されるのですぐになくなるということはないそうです。
できれば来年の4月15日に再びお参りしてみたいと思います。
鷗稲荷の向かい側に「水神様」が祀られた水神堂があります。
小ぶりですが立派なお堂で、このお堂は何かなと以前から不思議に思っていましたが、先日の「鬼平散歩in本所」の御住職様の説明で理解できました。
昭和20年3月10日の東京大空襲では、本所地区は壊滅的な打撃を受け、多くの人々が生命をおとしました。
この時、能勢妙見東京別院の本堂は焼失したそうです。
まだ幼かった御住職様と先代御住職様は、せめて妙見菩薩様はお守りしようとして妙見菩薩様を運び出そうとしましたが、周辺は火の海でとても運び出せることは難しい状況でした。
そこで、本堂前にあった井戸の中に、妙見菩薩様を沈めました。
これにより、幸いなことに妙見菩薩様は焼失を免れたそうです。
これは水神様が助けてくれたものだと考え、戦後、井戸のあった場所にお堂を建てて、感謝をこめて水神様をお祀りしたのだそうです。
御住職様のご説明でいろいろなことがわかりました。
能勢御住職様ありがとうございました。
次回は、能勢妙見と勝海舟の関係について書こうと思います。



