今日は、本所の報恩寺について書きます。
報恩寺は、JR錦糸町駅北口改札から約10分のところにあります。
報恩寺は太田道灌によって長禄元年(1457)に創建された日蓮宗のお寺です。 当初は、江戸城鎮護の祈願所として、江戸城の鬼門の方向にあたる平河に創建されました。
また、創建当初は、本住院といいました。
これは、太田道灌が帰依した日住上人の院号をとって称したものですが、太田道灌の孫の資高の代の大永4年(1524)に本住院を法恩寺と改称しました。
報恩寺という寺号は、資高の父資康(すなわち太田道灌の子供)の法号によるものだそうです。
ちなみに、道灌というのは出家した後の名前で、本名は資長といいます。
太田道灌が主君上杉定正に暗殺された後、江戸城は後北条氏の勢力下にはいりますが、北条氏が滅亡して徳川家康が江戸に入府すると江戸城の拡張工事を行いました。
この影響により、報恩寺は、慶長10年(1605)頃に神田柳原へ移転し、慶安2年(1649)頃には再び谷中の清水坂に落ち着きました。
さらに元禄2年(1689)閏正月二日には幕府の命により本所に移転しました。
報恩寺の山号は平河山と書き「へいかざん」といいますが、平河山となっているのは、平河村に創建されたことによるものです。
太田道灌供養墓
本堂右手奥には、法恩寺の墓地がありますが、その正面に建つ五輪塔が太田道灌の供養墓です。
太田道灌は、文明18年(1486)主君上杉定正によって糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市)で暗殺されました。
そのため、伊勢原市には首塚(下糟屋の大慈寺)、胴塚(上粕屋の洞昌院)と呼ばれる2つのお墓があります。
その他にも太田道灌の墓といわれるものがあります。
報恩寺のお墓は太田道灌を供養するために建てられたお墓です。
この供養墓は総高201.5 cm あり、各輪正面には「南無妙法蓮華経」が一字づつ刻まれています。
正面に「当山開基蓮乗院殿道灌日恩大居士」と刻まれています。
また、正面には父・資清の戒名、両側面に「資康、資高、康資」など道灌以降五代の当主の戒名が刻まれています。
墨田区の文化財に登録されています。
平川清水稲荷
大田道灌のお墓に行く途中の本堂の脇に「平川清水稲荷」があります。
当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるる清流があって人呼んで小川の清水と言い、太田道灌公も是を愛でて「武蔵野のの小川の清水絶えやらで岸のねせりを洗いことすれ」と詠まれている。
当時その小川の畔の本住院(当時の旧称)の側に稲荷の詞が祭られ、平川清水稲荷と称えられていた。現在法恩寺境内にその碑往が伝わって由緒を物語っている。
お稲荷さんは、農耕の神様や商売の神様として知られています。
しかし、さまざまは縁起や背景を元に、いろいろな稲荷信仰の形ととっています。
その一つに滝・井戸・清流などのほとりに祀られたお稲荷さんがあります。
「平川清水稲荷」もそうした稲荷の一つです。
このようなお稲荷さんとしては、西早稲田の「水稲荷神社」、墨田区の「隅田稲荷神社」、目黒区の「稲荷神社」などがあるようです。
赤印が報恩寺です。


