今日は勝小吉が書いた「夢酔独言」について書きます。
「夢酔独言」といえば、今年の江戸検1級の問題に次のような問題がありました。
幕臣だった大田直次郎(南畝)は、彼を嫌っていた採点官の目付が低い評価を付けたため、第1回の学問吟味に合格できなかったといいます。『よしの冊子』で、著者の水野為永に「他人のことを悪く言わないと出世できないという見識」の持ち主と評された、この目付は誰でしょう?
い)『東歌』の著者、加藤枝直 ろ)『夢酔独言』の著者、勝小吉
は)『耳嚢』の著者、根岸鎮衛 に)『賤のをだ巻』の著者、森山孝盛
「夢酔独言」が、この問題の選択肢の一つとなっていて、関心のある方もあるかと思いますので、少し詳しく書いていこうと思います。
「夢酔独言」は、勝小吉が42歳の天保14年(1843)の初冬に書いた自伝です。
自伝といって、自分の過去を誇るために書いたものではなく、自分の生涯を反省し、子孫の参考にさせようというために書かれたものです。
それは「夢酔独言」の最後に書かれています。
男たるものは、決しておれが真似をしないがいい。
孫やひこ(曾孫のこと)が出来たらば、よくよくこの書物を見せて、身のいましめにするがいい。
今は書くにも気がはずかしい。
そもそも勝小吉の実家男谷家は、代々続いた武家ではありません。
父男谷平蔵は旗本でしたが、祖父は米山検校(のちに男谷検校)といい、越後出身の盲人でした。
米山検校は、江戸に出て鍼灸按摩等の医療に携わり水戸藩の殿様に気に入られ、その後ろ楯により「検校」となりました。
そして、蓄えた金で旗本の株を買って、検校の三男男谷平蔵がつぎました。
勝小吉は、平蔵の三男で旗本の勝家に養子に行ったので、勝小吉を名のります。
勝小吉は、三男といっても妾腹の子供です。生まれたのは実母の家で生まれ、平蔵の正妻が引き取って男谷家で育てました。
勝小吉の兄男谷彦四郎は有能な旗本だったようで、信州中之条と越後水原の代官を勤めています。
「夢酔独言」にも、しばしば男谷彦四郎は出てきますし、「父子鷹」では、口やかましい兄貴として描かれています。
男谷彦四郎の養子が男谷精一郎で「剣聖」と呼ばれた剣豪です。
次兄の松坂三郎左衛門も有能だったようで越後水原の代官を勤めています。
兄弟の中で、唯一無役で終わったのが勝小吉です。
勝小吉は7歳で勝家の養子となりますが、養家には、妻となる信とその祖母が居るだけで信の両親は亡くなっていました。
この勝家の祖母が意地悪なおばあさんで、小吉はだいぶいじめられたようです。
「勝海舟」を書いている勝部真長は「幼い小吉の性格を歪めた大きな原因は、この意地悪婆さんにある」と書いています。
家にいられない小吉は、外に出て遊んで喧嘩ばかりしていました。
湯島聖堂に入校しても隣の桜の馬場で馬に乗っていて学問はそっちのけでした。
そして、ついには14歳の時に出奔をして伊勢白子まで旅をしますが、体をこわし、結局江戸に戻ります。
16歳になって御番入りをめざすことになりますが、これ以降のことは次回に書きたいと思います。

