江戸検の結果が発表になりましたね。
今年の1級合格者は23名のようで昨年に比べると大分増えました。
合格された方おめでとうございます。
この間の合格に向けて大変なご努力をされたこと思います。
この間のご努力に敬意を表したいと思います。
また、残念な結果に終わった方、心機一転して、新たに頑張ってください。
今日は「夢酔独言」の2回目です。
出奔して苦労した後江戸に戻った勝小吉は16歳の頃から御番入りをめざした活動を本格化していきます。
しかし、就職活動はうまくいきません。
「父子鷹」では、この就職活動の頃から小説が始まっています。
「父子鷹」では、就職の見込みがついたので宴席を設定したのにもかかわらず陰湿にいじめる上役を料亭の庭石に投げつけてしまい、せっかく決まりかけた話をぶち壊してします場面が描かれています。
この話は、「夢酔独言」には書かれていませんが、真山青果作の「天保遊侠録」には同様な場面があるようです。
この後、兄の彦四郎が代官を務める信州中之条に赴いて、兄を手伝ったりしていますが、21歳の時に再び出奔し遠州森町の知り合いの所で過ごしていると甥の男谷精一郎が呼び戻しに来たので江戸に戻ります。
江戸に戻った小吉を父平蔵は温かく迎えますが、同時に座敷牢に入ることを命じます。
そのため、小吉は男谷家につくられた座敷牢に24歳まで入れられることになります。
勝海舟が生まれたのは、小吉が座敷牢に入れられている間でした。
勝海舟は、両国の男谷家に生まれたということは知っていましたが、なぜ誕生地が男谷家の屋敷だったのか不思議でしたが「夢酔独言」を読んで、その理由がわかりました。
小吉は、勝海舟が生まれた後もしばらく男谷家に住んでいましたが、24歳の時に、本所割下水の天野左京の地所を借りて男谷家で住んでいた家を移築して住みました。
そこに住んだ3年目に、今度は出口鉄五郎の屋敷地のなかの空いた家作に引っ越しました。そこで出口の借金や地代取立ての面倒をみていましたが、出口に意見したことから地主に追い立てを喰らい、入江町の岡野孫一郎の屋敷地に移ります。
この岡野孫一郎の屋敷に移って間もなくに勝海舟が犬に咬まれて大けがをしましたが、この話は以前書きました。
その後、小吉は御番入りはあきらめたのでしょう。
刀剣の鑑定の商売を始めます。
もともと、小吉は、直心影流を団野真帆斎から学び、かなりの達人だったようです。
「父子鷹」では剣術の試合の審判を乞われて行う場面が出てきます。
また、「夢酔独言」には、山田浅右衛門に弟子入りして土壇切りをして遊んだとも書かれています。
こうした刀剣鑑定の商売をやったりしながら吉原通いをして放蕩していたため兄彦四郎から座敷牢にまた入れられそうになり、ついに隠居して家督を海舟に譲りました。
小吉37歳の時です。
「夢酔」という号は、隠居後の号で、「父子鷹」では兄彦四郎が考えたことになっていますが、「夢酔独言」には、その由来については書いてありません。
勝部真長氏は「勝海舟」のなかで「酔生夢死」からとった名前だろうと書いています。
「酔生夢死」とは酔っ払ってくらし、夢見て死ぬという意味のようです。
隠居してまもなく、小吉は地主の岡野孫一郎の借金返済問題に取り組むことになります。
岡野家は北条氏の旧臣板岡部江雪を祖とする名門 でしたが、幕末には大変困窮していました。
それに当主の放蕩もあって借金が嵩みました。そうした状況の為、小吉は岡野家の苦境を救うために、岡野氏の知行地摂津まで出かけて、知行地から600両の金を調達します。
これにより岡野家は一息つくことができました。
しかし、尽力した小吉は苦境にたつことになります。
当時旗本は、江戸を離れる時には幕府の許可が必要でした。しかし、小吉は無断で摂津に向かったのでした。
そのため、お咎めを受け他行止めを言い渡され自宅で蟄居するはめになりました。
「夢酔独言」は勝小吉が42歳の時に書いたものですが、勝小吉は「夢酔独言」を書いた7年後の嘉永3年(1850)49歳でなくなりました。

