今日は「怒る富士」の続編です。
この小説を新田次郎がなぜか書くようになったか?
それは、「怒るの富士」のあとがきを読むとよくわかります。
「怒る富士」のあとがきの概略を書いておきます。
私(新田次郎)は、富士山山頂観測所の勤務で、昭和7年から昭和12年まで、年に3か月か4か月富士山で暮らした。
宝永噴火と代官伊奈半左衛門の話は、強力(ごうりき)たちの口を通して最初に耳にした。
宝永噴火のため田畑が砂に埋まり、農民が餓死に瀕しているとき代官伊奈半左衛門は、駿府にある幕府の米蔵を開けて飢民を助けたが、その咎を受けて幕府に捕えられ、江戸に送られて、死罪になったという話に私は感動した。
私は「富士山頂」「芙蓉の人」など富士山頂と関係のある小説を書いたが、もっと大きなスケールで富士山を書きたいと思った。
私は伊奈半左衛門忠順の人物から調査を始めた。
関東郡代としての業績はかなりはっきりしているが、駿府の米蔵を開けて飢民を救ったという記録は何処にもなかった。
しかし、駿東郡内を調査していると伊奈半左衛門の伝説は、伝説というよりも固定観念として根強く残っていることにまず驚いた。
江戸時代から伊奈半左衛門を祭った小祠があちこちにあったが幕府の眼をおそれて例祭日を設けなかったなどという話は、伊奈半左衛門の死がなにか異常であったことを思わせた。
伊奈半左衛門が切腹したという記録はないが、調べて行けば行くほど、その死が尋常なものではなかったように思われて来た。
小説「怒る富士」は資料倒れするほと資料を集めた。そしてその引用を明らかにするよう努めた。
私としては今までになく気張った小説であった。小説としての興味よりも、真実のとしての興味に、何時の間にか引張りこまれていた。
いい仕事をしたという満足感はあった。
あとがきを正確に書いたわけではありませんが概略を書きました。
もし「怒る富士」を読む機会がありましたら、あとがきから読むのもよいと思います。
このあとがきは、すごいあとがきで、新田次郎が、この作品に相当の思い入れを込めて書いたということがわかります。
また、新田次郎は、その出来栄えにも満足しているということもわかるように思います。
さて、幕府が、駿東郡59か村を「亡所」にするという場面があります。
「亡所」というのは、先にかいたように「災害などで人が住めなくなる場所」ということです。
人は住めない土地となるので、そこに住む百姓たちは税を納める必要はないということになります。
一見、幕府が被災地を配慮して、「亡所」に指定しているかのように思われがちですが、これは、配慮したわけではなく、そこで生活していた百姓たちを救済しなくなるということです。
新田次郎は、「怒る富士」の中で、亡所の意味を次のように書いています。
「山野が一面火山灰に覆われていて、復興開発ができないから、住民たちは何処にでも勝手に離散して生活しろと幕府の奉行はいう。
しかし、百姓は、どこの国にいく方便もなく、ただただ餓死を待つばかりとなった。
こうした無為の救済策をとることに関東郡代・伊奈忠順は納得しません。
現にそこに住んでいる人がいる限りそれを救済しようとするのです。
そのため、適法でないやり方で、駿府の米蔵を開かせるのでした。
米蔵を開くということは百姓を救済することであり、幕府の「亡所」という施策に対する抵抗となります。
そして、責めを一身に背負って切腹して果てるのでした。
ところで、「亡所」とされた駿東郡59か村の百姓の嘆きの場面を読んだ際には東日本大震災による福島第一原発の事故により避難をよぎなくされた人々を思い起こしていました。
そして、もし新田次郎が今も生きていたら、福島第一原発の事故をどう見るだろうかとも思いました。