「孤愁の岸」は大変感動した小説でした。
しかし、読んでいていくつかの疑問がおきました。
①なぜ、宝暦年間まで、木曽三川の治水がほったらかしにされていたのか?
②なぜ、突然、薩摩藩が「お手伝い普請」を命じられたのか?
③なぜ、多くの藩士が割腹したのか?
④地元の百姓たちが、本当に非協力的だったのか?
こうした疑問をいくらかでも解消したいと思って、「孤愁の岸」のほかに、いくつかの本を図書館から借りて読んでみました。
それは、「宝暦治水・薩摩義士」(坂口達夫著)、「宝暦治水」(牛嶋正著)、「箱根用水と宝暦治水物語」(濱田進)です。
これらを読んで、いくらかわかったことがあります。
そこで、わかったことについて順に書いておきます。
今日書くことは「なぜ宝暦年間まで、木曽三川の治水工事が本格的に行われなかったか」についてわかったことを書きます。
これについては上記の3つの本に書いてありました。
治水工事が行われなかった理由は幕府の政策だったようです。
というのは、木曽三川を江戸を守る自然の防衛線にしようという考えがあったと書いてあります。
尾張国の地形は東が高く西が低い「東高西低」の地形となっています。
そのため、木曽御嶽付近で降った雨を集めた木曽川、飛騨地方に降った雨を集めた長良川、養老山系に降った雨を集めた揖斐川の流れがすべて西濃地域に集中してきます。
そして、これが江戸からは遠い距離にありますが、上方から江戸が攻撃されるのを防衛するうえで重要な拠点と考えられたようです。
そこで、木曽三川の東側に位置する地域に御三家の筆頭尾張藩を配置しました。
そして、その尾張藩を洪水から守るために、木曽側の尾張藩側つまり東側に堤防を築きました。
これが「御囲堤」と呼ばれる大堤防です。
これに対して、木曽三川の西側の堤防は、尾張側の堤防より3尺低く築くことが不文律とされていました。
こうすることによって、どんな大洪水が起きても、尾張藩側が被害を受けることはなくくなりました。
この政策は尾張藩を守るだけでなく江戸を守る軍事上の備えの面ももっていたようです。
こうした政策のため、美濃・伊勢側の水田は大雨があれば常に被害を受けるようになるため、しばしば、木曽三川の本格的な治水工事を行うよう、幕府に陳情しました。
しかし、当初の政策が家康の時代の決定であったこと、そして、美濃・伊勢側の堤防を強固なものにすれば、尾張藩の被害が生じることから幕府の尾張藩への気兼ね、そして尾張藩の反対がありました。
こうしたことが、長いこと本格的な治水工事が行われなかった理由だと書いてあります。
こうした状況のため、「宝暦治水・薩摩義士」によれば、元禄14年(1701)の大洪水以降、宝暦治水工事が行われた宝暦4年(1854)までの53年間に41回もの水害が発生していたそうです。
徳川幕府が開かれたころから数えれば、150年もの間、しっかりした治水工事が行われなかったので、数多くの洪水が発生していたものと思われます。
こうした状況の中で、宝暦3年(1753)に大水害が発生します。
ここで幕府はようやく重い腰をあげて、本格的な治水工事に着手することとなったと「宝暦治水」に書かれています。
これで、長いこと本格的な治水工事が行われなかった事情がわかりました。

