今日も「宝暦治水工事」について書きます。
今日は、「どうして薩摩藩が宝暦治水工事を担当することになったか」について書きます。
結論からいうと、これははっきりしません。
「孤愁の岸」の冒頭は、平田靭負(ゆきえ)が急ぎ登城を命じられる場面から始まります。
それは江戸から急飛脚が鹿児島に着き、それを家老たちで協議するための呼出しでした。
急飛脚が届けた情報が、木曽三川の「お手伝い普請」を命じられたというものでした。
「お手伝い普請」は、大名の財力を割くために大名に命じるといわれていて、「孤舟の岸」でもそのように書かれています。
そのため、各大名は、その対象となることを極力避けるために、江戸藩邸の幹部は、情報収集や幕閣への工作を行うとされています。
しかし、「孤愁の岸」では、そうした場面はまったくなくて、まさに突然に場面が展開していきます。
その命令を受けるかどうかの評議の中で、これは当時の尾張藩主の徳川宗勝の暗躍ではないかと意見が出され、「策士と噂されている尾州侯宗勝。新将軍家重の暗愚に付け込んで幕閣に威をのばしはじめた宗勝ならば、卑劣な工作ぐらいやりかねない」と書いてある部分もあります。
しかし、全体として、いきなり「お手伝い普請」を命じられたことから物語が始まっていて、なぜ薩摩藩が、それを命じられたかについて杉本苑子さんは触れていません。
宝暦治水工事は総額で40万両もかかった大工事です。
これほどの大工事が計画されているということは江戸で話題になるはずです。現に「孤愁の岸」には、留守居役からそれを伝える手紙が平田靭負に届いたことになっています。
これに対して、どの藩であっても、これを一藩で担当するのは大変ですので、わかっていれば、それを避けようと幕閣に働きかけるはずと思われます。
そうしたことから薩摩藩は「お手伝い普請」を避ける努力をしなかったのかというのが私の疑問だったのですが、「宝暦治水・薩摩義士」(坂口達夫著)、「宝暦治水」(牛嶋正著)、「箱根用水と宝暦治水物語」(濱田進)の3冊の本を読んだ限りでは、そうしたことについて触れたものはありませんでした。
多分、宝暦治水工事が、なぜ薩摩藩に命じられたことということがわかる記録が残されていないのではないかと思います。
そもそも、宝暦治水工事に関する記録そのものが少ないようです。
「宝暦治水・薩摩義士」には、薩摩義士の顕彰に尽力した勝目清元鹿児島市長の手記が載っています。
それによると、「平田靭負以下の一同の子孫も先祖が善いことをしたとは思っていなかった。恥ずかしい思いをもっていたのである。(中略)一家の恥とも思っていたから、子孫にも伝えていない。(中略)義士の遺族に残った文書は非常に少ない。」と書かれています。
こうしたことから、当事者である薩摩藩にも残された記録が非常に少なかったのではないでしょうか。
このように、3冊の本を読んだ限りでは、薩摩藩がお手伝い普請を命じられるようになった背景について、一般的に言われる「外様大名の財力をそぐために命じた」ということ以上の詳しいことは明確となっていないように思われます。
右上写真は、昨日、小ツルさんがコメントしてくれて犬山城とその眼下を流れる木曽川の写真です。

