今日は「宝暦治水工事」の3回目です。
「孤愁の岸」によれば、宝暦治水工事で、薩摩藩の死者は252人となっています。
西濃に派遣された人数が約1000人、そのうち約250人も亡くなるというのは、すごい被災率だなぁと「孤愁の岸」を読んで思いました。
しかし、実際の死亡者の数は、「孤愁の岸」に書かれているほど多くはないことがわかりました。
それでも、1年余りの工事で、84人もの人がなくなるというのはすごい数です。
しかも、その内訳をみると割腹者が52人、病死者が32人となっています。
そして、工事中の事故による死亡者はゼロとなっています。
割腹者が52人というのは尋常ではないと思います。
病死というのであれば、慣れない土地での慣れない作業、そして猛暑の夏、厳寒の冬での作業ということもありますので、多少、理解できます。
しかし、割腹と云うのは、何らかの意思が働いているとことです。
一般的に考えられるのは、抗議、あるいは責任を取ってということになります。
「孤愁の岸」では、「初犠牲(はつにえ)」で春期の工事の際の3人の武士の割腹が描かれています。
これは、家老平田靭負に対して抗議の声をあげて欲しいと言う願いを込めた藩士の割腹でした。しかし、平田靭負は、怪我で死亡と届けさせました。
さらに、「雉子汁」で1人の割腹が描かれています。
また、後半の「伊吹颪(おろし)」「風に哭く声」「野の落日」を通じて工事請負代金の詐取の責任を負って算用方が割腹します。(本論からはずれますが、この場面は劇的です。映画を観ているようでした。)
それ以外では、割腹の場面は描かれていません。
50人もの割腹があれば,様々な事情が想像されます。そして、それが幕府への抗議ということになれば、薩摩藩藩士の苦悩が劇的に描かれることになりますが、幕府に抗議して割腹する場面はありません。
これが不思議だなぁと思いました。
こうした書き方となっているのは、割腹の事情がはっきりしていないためのようです。
「宝暦治水」(牛嶋正著)によれば、上記の人数についても注書きで「宝暦治水工事の犠牲者のうち、とくに、薩摩方の記録がほとんど欠けているので、人数および人名に関しては『鹿児島県史』などにもとづくこととした」と書いてあります。
そして、本文では、「犠牲者に関する資料がないのは、幕府に対する抗議のための自害であることをできるだけ気づかれないように、薩摩方が表向き病死とか、怪我による死亡として幕府に届け出たことによる」と書いています。
こうしたことから、52人もの割腹者がいながら、その間の事情がよくわからないのだろうと思います。
そうした事情の中で「孤愁の岸」を書いた杉本苑子の筆力に驚かされます。
右の写真は、上段が伏見の薩摩寺(大黒寺)、下段が平田靭負のお墓です。


