今日も「宝暦治水工事」について書きますが、これで一区切りとしたいと思います。
「孤愁の岸」では、百姓が非協力的であったと書かれています。
もちろん全員がという訳ではなく、協力的な百姓も描かれています。しかし、それは一部の百姓というトーンでした。
薩摩藩士の言葉として次のような表現もあります。
「肚は据えて来たんだ。前からは幕吏、うしろからは金貸し、横からは土地(ところ)の百姓どもにいびられる毎日だろうと。」
ここには「百姓にもいびられる」と書いてあります。
「孤愁の岸」を読んでいて、これには違和感を感じました。
「わざわざ300里も離れた薩摩から、縁もゆかりもない濃尾平野に来て、自分たちのために治水工事をしてくれる薩摩藩士たちに対して、百姓がこんな冷たい仕打ちをするのだろうか?」と思いました。
しかし、「孤愁の岸」では、最後まで、百姓が薩摩藩士たちに感謝する場面はありません。
これでは、薩摩藩士たちはあまりにもかわいそうだと思いました。
私は、名古屋にいたことから、西濃地方では「薩摩の方に足を向けて寝るな」という言い伝えがあることや岐阜県の小学校では社会科の副読本で「宝暦治水工事」のことが取り上げられているということを知っていましたので、一層、意外な感じがしました。
そこで、西濃地区の百姓たちは、本当に感謝していなかったのか知りたくて本を読んでみました。
これについての回答は「かごしま文庫『宝暦治水・薩摩義士』」(坂口達夫著)に書かれていました。
この本はかごしま文庫と書かれているように薩摩側から書かれたものですが、「宝暦治水工事」の概要や薩摩義士(「宝暦治水工事」に派遣され苦労した藩士たちの呼び名)の顕彰の経緯について書いてあります。
「埋もれていた薩摩義士」の項目で、薩摩義士がどのように顕彰されるようになったかが詳しく書かれています。
それによると薩摩義士が広く知られるようになったのは明治以降だそうです。
顕彰の先駆けのなったのが三重県桑名郡多度村の豪農西田喜兵衛です。
『宝暦治水・薩摩義士』」によると次のように書かれています。
「西田家では祖先からの言い伝えで「他日これを世に発表せよ」と一つの書類箱が代々引き継がれてきたが、明治9年、伊勢の国に農民一揆が起きたとき、惜しくもこれが灰燼に帰した。
喜兵衛は「薩摩のご恩、忘るべからず」と言っていた父祖の言い伝えをもとに、その書類が何の記録であったのか、その真相を調べていくうち、次第に薩摩藩の事績を義没者の埋葬地が明らかになり、明治の半ばから、これを広く世間に知らしめるため献身的に奔走し、薩摩義士懸賞の端緒を開いた」
薩摩藩士の顕彰は、こうして濃尾地区から沸き起こり、明治33年「宝暦治水之碑」が建立され、大正5年、平田靭負に従五位追が追贈されるようになったようです。
昭和になると薩摩藩士の顕彰はさらに進み、宝暦治水工事の最難関工事であった油島千本松原近くに平田靭負を祀る「治水神社」が昭和13年に創建されています。(右上写真:ウィキペディアより転載)
薩摩藩士の地元の鹿児島県での顕彰活動は、当初は濃尾地区の活動に触発されて動き出したとも書かれています。
こうした薩摩藩士の顕彰活動の経緯を見ると、「孤愁の岸」には描かれてはいませんが、地元の百姓は、深く薩摩藩士たちに感謝していたことがわかります。
「やっぱり、百姓たちは感謝していたんだ」と思い、「ほっと!」しました。

