国立科学博物館で開かれていた「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」に行ってきました。
その展示を見た後、上野東照宮にお参りしてきました。
上野東照宮は長い期間社殿の修復工事をしていて平成25年12月に完了していましたが、修復工事完了後参拝をしていなかったので、ちょうど良い機会と思いお参りしてきたのです。
このブログでは、上野東照宮について詳しくは書いてないので、今日から上野東照宮について書いていきます。
上野東照宮は、藤堂高虎が創建したものです。
上野といえば、江戸時代の初めから寛永寺があると思っている方が多いと思いますが、寛永寺ができたのは寛永8年(1631)で、寛永寺ができる前にには、藤堂高虎等の下屋敷がありました。
藤堂高虎が寛永4年(1627)その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社を創建しました。
一説では、家康がなくなる時に、藤堂高虎と天海僧正が、危篤の家康の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言されたので、藤堂高虎の屋敷があった場所に創建されたとされています。
また、江戸市民が東照宮に参拝しやすくするために上野に創建されたとも言われています。
東照宮は、創建当時は東照社と呼ばれていましたが、正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈りましたので、それ以後、東照宮と呼ぶようになりました。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。
東照宮の入口に、国の重要文化財に指定されている大きな石鳥居があります。
この鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。
石鳥居の左の柱に「寛永10年 酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれています。
この鳥居の様式を明神型鳥居といいます。
酒井忠世は、2代将軍秀忠付の年寄でしたが、家光が世継となると家光付の年寄となります。
家光は、平素口数少なく厳正な忠世を最も畏れたといいいます。
この鳥居を奉納された翌年の寛永11年家光が30万の大軍を率いて上洛していた7月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は責任をとって寛永寺に退去しましたが、これがかえって家光の怒りをかい失脚することとなりました。
酒井忠世の子は忠行で、孫が4代将軍家綱の時代に下馬将軍とよばれ権力を振るい大老にまでなった酒井忠清です。
大鳥居の石材には備前の御影石が使用されています。
鳥居の右の柱には、「得鉅石於備前国迎茲南海運干当山」と刻まれています。
正確な読み方はわかりませんが、「備前国で巨石を取り出し、南海を運んで当山に建てた」というような意味だと思われます。
この石鳥居を建立した酒井忠世は、家光の勘気を蒙って失脚しましたが、その後、天和年間に石鳥居が地下に埋められたと言われています。
天和年間になぜ地中に埋められるようになったかは詳しいことはわかりません。
それを享保19年(1734)に再建したのが、7代後の酒井雅楽頭家の当主である酒井忠知(忠恭)です。
鳥居の裏には次のように刻まれています。
「右石華表者七世祖考酒井忠世所奉建也。今茲蒙台命加琢磨奉再建之。享保十九年甲寅十二月十七日、厩橋城主従四位下酒井雅樂頭減朝臣忠知」
「華表」とは「鳥居のこと」、「琢磨」とは「玉などをとぎ みがくこと」です。
すると石鳥居は、7代前の祖先である酒井忠世が建てたものです。今、将軍の命令を賜って、磨きなおし再建しました。享保19年 酒井忠知」といった意味だと思います。
酒井忠知は、後に酒井忠恭と名前を変えていて、老中まで勤めています。
時には、鳥居に刻まれている文字を読んで見るのも良いものです。
この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。


