今日は、上野東照宮の2回目です。
石鳥居をくぐるとその先に、門が見えてきます。
水舎門というのは、あまり聞かない門の名前だと思います。
実は、この門は、もともと社殿の手前にある水舎として使用されていたものを門として利用しているものです。
門の屋根を、門の下からみると、なるほど水舎の造りです。(右写真)
東照宮の水舎は、慶安4年(1651)、時の老中阿部重次が奉納したものです。
阿部重次が東照宮の造営奉行を命じられていたので、水舎を奉納したそうです。
その水舎は、社殿の手前右側にありましたが、その水舎の上屋だけを昭和39年に門として移築したものだそうです。
水舎は、現在も、社殿の前にあります。
現在の水舎は、明治 6年(1873)、新門辰五郎が寄進したものといわれています。
しかし、水舎の中に設置されている水鉢をよくみてください。
水鉢の右側に「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」左側には「慶安四年猛春吉辰」と刻まれています。
猛春は三月を指していると思われます。
また、吉辰は吉日と同じ意味です。
つまり、阿部重次が慶安4年3月に奉納した水鉢であることがはっきりわかります。
水舎門に使用されている上屋と水鉢は一体となって使用されていたものと思います。
ところで、水鉢として使用されている石材は小松石だそうです。
小松石は、非常に堅い石ですので、少しの文字を刻むにも相当の労力を必要とするそうです。
それにもかかわらず、これだけの文字を刻んでいるので、労力を惜しまずこなわれていることがわかるようです。
水舎を奉納した阿部重次は、この水舎を奉納してまもなく亡くなっています。
家光が亡くなった際に、5名の殉死者がいました。
老中では、阿部重次と堀田正盛が殉死しました。
堀田正盛は、若い頃から家光に寵愛されていましたので殉死して当然と思われました。
しかし、阿部重次が殉死を申し出た時、多く人が意外に思いました。
その際、阿部重次は、「高崎に幽閉されていた家光の弟忠長に切腹を迫る際に、死を覚悟して臨んでいたので、その時、既に家光に命を捧げていた」と説明をしたので、多くの幕閣も、殉死をとめなかったと言われています。
なお、家光がなくなった際に、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が殉死しなかったため世間から非難を浴び、落書にも「弱臣院前拾遺豆州大守弱死斟酌大居士」と書かれたということが、昨年の江戸検1級の試験問題で出題されました。