今日は「治水神社」と「宝暦治水之碑」についてご案内します。
「治水神社」は、国営木曽三川公園と道をはさんだすぐ南に鎮座しています。
訪ねた日は、参拝する人もまばらで、まさに千本松原の静寂の中に鎮座していました。
「治水神社」は、宝暦治水工事を総奉行として指揮した薩摩藩家老の平田靭負を祭神とした神社です。
明治以降に始まった薩摩藩士顕彰の動きのなかで、大正14年から地元の有志によって宝暦治水奉賛会が設立され、広く全国に基金を募り建設を進め、昭和2年3月に着工し、昭和13年2月に竣工したものです。
着工から約10年以上かかっているということは、治水神社が、多くの人々の浄財で完成したことを物語っているようです。
これは、鹿児島ライオンズクラブから寄贈されたものだそうです。
また、4月25日の春季例大祭や10月25日の秋季例大祭には鹿児島県からも参拝者があるそうです。
鹿児島県の人たちも故郷の先人を厚く顕彰していると感じました。
「治水神社」から千本松原を南に約1キロほど行った所に「宝暦治水之碑」があります。
薩摩藩が大きな犠牲を払って宝暦治水工事を行ったことは、江戸時代は、あまり知られていませんでした。
明治になって、揖斐川の西側にある三重県の西田喜兵衛が、薩摩藩士たちの顕彰のために尽力しました。
西田喜兵衛は、「薩摩のご恩 忘るべからず」という先祖からの言い伝えを守り、生涯をかけて宝暦治水工事の顕彰活動に尽力しました。
この結果、明治33年に千本松原に「宝暦治水之碑」が建立されたのです。
篆額の「宝暦治水之碑」は当時の総理大臣山県有朋が書いています。
この石碑の建立式には総理大臣山県有朋をはじめ、薩摩出身の内務大臣西郷従通など多くの参列者が集まりました。
山県有朋は碑文の文章を自ら読み上げたそうです。
撰文は、時の枢密院書記官長小牧昌業が書いています。
その最後の部分には次のように書かれています。
(宝暦治水工事)以来百五十年を経る。里人今に至るも偉業を讃えること忘れず。話が犠没者の事に及ぶとすすり泣きする者あり。(中略)この地の人々、宝暦治水の功績を偲び、犠没者を悼み、その偉業を忘れないようにと有志を謀り石碑を建て、事績を刻んで後世に伝えるため私に撰文を求める。
石碑の裏面(右上写真)には、平田靭負をはじめ犠牲者の名前が刻まれています。
赤印が治水神社、ピンク印が宝暦治水之碑です。 国営木曽三川公園の展望タワーは青印です。



