今日は、「宝暦治水工事ゆかりの地を行く」の続きで「水屋と輪中」について書きます。
その前に、日曜日に開催された「江戸検10周年感謝のつどい」で出題された問題の正解を書いておきます。(問題は、月曜日にアップした記事で確認ください)
正解は、「 は)光高は下戸だったのに若死にした。 」です。
多くの人がわからないだろうと思っていましたが、常連コメンテーターの「浜之悪代官」さんから「かつて、このことを書いたものを読んだことがあって正解がわかりました」と連絡がありました。浜之悪代官さん、すごいですね。
さて、水屋のお話ですが、国営木曽三川公園には、輪中の農家が復元されていて、その一画に水屋も復元されていました。
右写真は、展望タワーからみた水屋がある輪中の農家です。
水屋は輪中地帯に見られる独特の建物です。
輪中地帯の農家では、日常暮らす母家のほかに「水屋」という建物が敷地内に作られています。
この水屋は、洪水時の避難所として石垣を組んで周囲より高くした小屋です。
公園の水屋は、石垣の高さが約4.35mもある高い場所に建てられていました。
輪中の周囲を囲んでいた堤防が壊れると洪水になりますので、その際に人命や大切な財産を守るために工夫されたものです。
そのため、この水屋の中には米や味噌など生活をしていくための必需品を保管されていました。(右写真は、米や穀物、飲み水、みそ・しょうゆを保管した倉庫部分です)
また、洪水で入ってきた水は、堤防が元通りになるまで出すことができない場合もあり、短くても数ヶ月、長ければ2年という記録も残っているそうです。
そこで、長期間この水屋で暮らさないといけないこともあるため、右写真のように水屋には一時的に暮らせるように座敷も造られています。
また、母家の方には、軒先に船がつりさげられています。
これは、「上げ舟」と呼ばれます。
上げ舟は洪水の時に人や荷物を運ぶ船です。
多くの家で母屋(おもや)や水屋(みずや)の軒につるしていました。
ふだんは、底を上にしてつるし、川の水が増えて危険になると船を下ろして、座敷の前にある「舟つなぎ柿」と呼ばれる柿の木につないで洪水に備えたそうです。
輪中のどこの家にも舟が備えられていたそうです。
また、「上げ仏壇」といって、洪水の時、大事な仏壇が水につからないよう2階に上げる工夫もされていたそうです。
ところで、「輪中」とはなにかということについて多くの読者の皆様はご存じだと思いますが、念のため説明しておきます。
輪中というのは、水害から人命や家・田畑を守るため、集落や耕地の周囲を堤防で囲んだところをいいます。
この輪中は木曾三川の下流部分にあるものと思いましたが、濃尾平野では木曽川河口からほぼ45kmの内陸にある岐阜市から伊勢湾まで大小45の輪中が連なっているそうです。
尾張藩の支藩があった高須も輪中の一つだそうです。
輪中堤という輪中を囲む堤防は、最初は集落・耕地の上流側にあたる部分に造成されました。
その後、土地全体を囲む堤防ができあがり、輪中が完成します。
関東平野に住んでいると、こうした景色をみることはあまりありませんが、西濃地域では、ごく普通のことのようで、名古屋の知人は、西濃地域の道路は上り下がりが今でも多いが、これは輪中の堤防があるためだと教えてくれました。