今日は、明暦の大火の2回目ですが、明暦の大火の火元とされている本妙寺をご案内します。
本妙寺は、江戸時代は本郷にありましたが、現在は巣鴨にあります。
JR巣鴨駅から徒歩10分ほどの距離にあります。
本妙寺の山号は徳栄山と言いますが、これは、徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたものです。
本妙寺は、もともとは、徳川家に仕えた久世家、大久保家、阿部家などが、元亀2年(1572)徳川家康が岡崎城から浜松城に移った際に浜松に創建されたお寺です。
こうした経緯から徳栄山と云う山号にしたと思われます。
その後、徳川家康の江戸入府した際に、久世家、大久保家、阿部家等と共に江戸へ移転しました。
本妙寺のHPによると「当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、江戸城の拡張に伴い飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている」と書かれています。しかし、「江戸城清水御門内の礫川町」というのがどこか不明です。
寛永13年(1636)出火のため全焼した後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山に替地をうけ、約6000坪の境内をもつ大寺院として復興しました。
しかし、明暦3年(1657)正月十八日、明暦の大火によってすべて焼失しました。
その後、火元と言われながらも郊外へ移転を命じられることなく本郷での再建を許され、江戸時代を通じて本郷にありましたが、明治43年(1910)に巣鴨に移転しました。
明暦の大火供養塔
本堂の横に、「明暦の大火供養塔」があります。
明暦の大火は、本妙寺が火元とされていますので、その人たちを供養するために建てられたものです。
ここには、いつお参りしてもお花が供えられています。
本妙寺には、遠山金四郎景元をはじめ有名人のお墓が多くありますので、明暦の大火には直接的には関係ありませんがご案内しておきます。
北町奉行遠山金四郎景元の墓、千葉周作成正の墓、本因坊のお墓、関宿藩主久世大和守歴代の墓の順にご案内をしてきます。
遠山金四郎景元の墓
遠山金四郎景元のお墓は墓地の東側奥にあります。
写真左手が、遠山金四郎景元のお墓で、右手は遠山金四郎が建てた遠山氏先塋(せんえい)之碑です。
遠山金四郎は、嘉永4年(1851)夏、軽い「中風」となり、翌嘉永5年(1852)3月24日、南町奉行辞任し、3年後の安政2年(1855)2月29日死去し、3月2日に葬儀が行われています。
講談社現代新書「名奉行『遠山の金さん』の実像に迫る」によると、2月30日、3月1日に、北町奉行与力2人、同心3人、南町奉行与力7人。与力見習2人、同心6人さらに江戸町年寄3人が弔問に来ており、遠山金四郎が部下に慕われたお奉行であると書かれています。
部下に慕われていたという証のものが、墓前にもあります。お墓の前の石灯籠がそれです。
右手の石灯籠は、小伝馬町牢屋敷の老奉行石出常真と南町奉行所与力東條為一・為文が寄進をしたもので、左手は、江戸町年寄の館興正、喜多村政文、樽忠温が寄進をしたものです。
千葉周作の墓
千葉周作はいうまでありません、北辰一刀流の創始者で、道場は神田お玉が池の玄武館です。
浪士組の清河八郎、山岡鉄舟、新選組の山南敬助などです。
千葉周作は、岩手県陸前高田市で生まれましたが、先祖を辿れば板東八平氏のうちの一つである名門千葉氏の出身です。
坂東八平氏の一である千葉氏の家紋は、星と月を象った「月星」です。この家紋が、千葉周作のお墓に刻まれています。
囲碁家元本因坊歴代の墓
本因坊という言葉をご存知の方も多いと思います。
本因坊というと現在は、囲碁のタイトルの名前を思っている方もいらしゃるかと思いますが、もともとは、本因坊は、囲碁の四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)です。
「本因坊」という名前は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊に 初代本因坊の本因坊算砂が居住していたことに由来します。
本因坊算砂は本坊因家の初代頭領として「名人・本因坊」に叙せられ、また慶長8年(1603)、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。
「碁所」とは江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保証された棋士です。
碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。
その理由に実子相続とする世襲制ではなく、弟子の中で優れたものが相続する実力制だったことが挙がられます。
昭和になって最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉が、本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものであるということから、日本棋院に本因坊の名跡を譲り渡し、選手権制による本因坊戦が行われることになりました。
関宿藩主久世大和守歴代の墓
久世氏は、もともと三河の武士でした。そして、本妙寺を創建した一族でもあります。
初代の広之が関宿藩主となり、以後、2代目重之の時一時、関宿を離れたこともありますが、まもなく関宿藩主に戻り、以後幕末まで、長いこと関宿藩主でした。
久世家の歴代藩主は、幕閣の枢要な地位を占めることが多く、その中でも、初代広之、2代重之、4代広明、7代広周の4人が老中に就任しています。