今日は、明暦の大火の5回目として「浅草門の悲劇」について書きます。
浅草門は、現在の浅草橋の南たもとにありました。
右の浅草橋は北側から撮っていますので、橋の先にあったことになります。
浅草門は、奥州街道の出入り口の関門として、神田川が隅田川に流れ込む部分に建てられました。
浅草門の浅草は、「浅草寺」の正面にあることから付けられた名前です。
「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附(浅草門)の真北が浅草寺になります。
門が建てられたのは、寛永13年(1636)で、門を構築したのは、越前藩主松平忠昌でした。
開幕当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれましたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移りました。
浅草見附(浅草門)は橋の南側にありましたが、浅草見附跡の碑は、橋の北側に設置されています。
ちなみに、浅草橋の南側は中央区で、北側は台東区です。
浅草門では、明暦の大火の際に2万人以上の人が死ぬという悲劇が起きました。
火事が小伝馬町牢屋敷に近づいた時に、石出帯刀が、囚人の切放をしたことは、前回書きました。
これが結果的に悲劇を引き起こすこととなりました。
小伝馬町牢屋敷の囚人を切放したことが、浅草門に正しく伝わらず、「囚人が牢屋敷から逃げ出した」と伝わりました。
浅草門は、江戸市中から浅草方面に逃げる逃げ道でした。そのため、多くの市民が殺到していました。
本来であれば、この人たちを逃すために、門は開放されていなければなりません。
しかし、囚人が脱走したと勘違いした番人が警戒のため門を閉めたといわれています。
そのため、浅草門の枡形内には大勢の人が集まり、身動きできない状態となりました。
そこに火事が迫り火の粉が降り注ぐ事態となりました。
逃げ場を失った人の中で、体力のあるものは、浅草門の石垣をよじ登り屋根を乗り越えて、そこから神田川に飛び込みました。
彼らは石垣に頭や体を打ちつけ大けがをしたり死亡したりしました。
無事堀に飛び込めた人も後から飛び降りてくる人たちに圧殺されたりしました。
下の絵は「むさしあぶみ」に描かれている絵ですが、浅草門の屋根から人々が飛び降りている様子や神田川に大勢の人があふれている様子がよくわかります。

そうしているうちに浅草門自体に火が燃え移り、門が大音響とともに崩れおちました。
これにより門内にいた人たちも焼き尽くされてしまいました。
翌日、浅草門は黒焦げの死体で埋め尽くされていたそうです。
ここでの死者は2万3千余りと「むさしあぶみ」は書いています。
