昨日は、3月25日から31日まで一般公開されている皇居乾通りに行ってきました。
乾通りの一般公開は、今秋と来春は中止が決まっているとのことで、しばらくチャンスがなくなるので、昨日はお花見日和ではありませんでしたが、あえて行ってきました。
乾通りの一般公開は、坂下門から乾門までの乾通りが公開されるものですが、日頃見ることのできない皇居内を見ることができました。
右上写真は、富士見多聞ですが、手前の桜は2分咲き程度でした。
乾通りを歩いた後は、皇居の東御苑に入り、天守台を見てきました。
天守台は、江戸城本丸の一番北側に位置しています。
現在、残された天守台は、明暦の大火で焼失した天守を再建する計画で、明暦3年から工事が着工されたものの、天守の必要性が薄れたとの保科正之の意見が通り、天守の再建が見送られたため、天守台だけが残されたものです。
江戸城の天守は、3度築造されています。
まず、初代将軍徳川家康が慶長11年(1606)に築造しました。これが「江戸城 その全容と歴史」で西ヶ谷恭弘先生が「慶長度天守」と呼んでいる天守です。
慶長度天守が築かれた16年後の元和8年(1622)に2代将軍秀忠が「元和度天守」を築造しました。
さらに元和度天守築造後16年たった寛永15年(1638)に3代将軍家光が築造した天守が「寛永度天守」が築かれました。
つまり、将軍の代替わりごとに築き直されているわけです。
元和度・寛永度の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
しかし、家康が築いた慶長度天守は、現在の天守台より南の本丸中央に近い場所にありました。
また、家康の築いた天守は白漆喰塗りの天守で、冬には白雪を冠ぶった富士山と並び立つようだったそうです。
秀忠が築造した天守の様子は史料が残されていないため詳しいことはわかっていないようです。
家光が築造した寛永度天守は五層五階地下一階ので、石垣が約13メートル、棟までの高さが約45メートルありました。全体で60メートルにも達する巨大天守でした。
また、「江戸城 その全容と歴史」によれば、壁面は燻加工され防火性を高めた黒色の銅板が貼られていたため、天守は黒い色をしていたそうです。
明暦の大火の第一の出火元本郷の本妙寺から起きた火事の際には、江戸城は幸いなことに炎上しませんでした。
しかし、第二の出火元である小石川伝通院表門坂下からの火事は、小石川にある水戸藩の下屋敷を焼き、堀を飛び越え、竹橋内の天樹院(千姫)の屋敷や将軍の弟である甲府藩主松平綱重や館林藩主松平綱吉の屋敷を炎上させ ました。
そして、ついに本丸にも火事が近づいてきました。天守に火が移ったのは「明暦の大火」(黒木喬著)によれば正午から午後1時にかけてだったとされています。
防火性能の高い黒燻加工のされた銅板が貼ってあった天守ですが、どういう理由かわかりませんが、2層の窓が開いていたため、そこから火が天守の内部に入り込み炎上したそうです。
「後見草」には、「御天守二重目の銅窓の戸内より開き是より火先吹込、移り申候よし」と書いてあります。
そして、本丸と二ノ丸にも火が移ったため、将軍家綱も西の丸に避難することに決しました。
この時、大奥の女中たちも避難しましたが、大奥の中にいて表の様子のわからない奥女中のを避難させるために、松平信綱が、表の座敷の畳を一畳ずつ裏返して逃げ道の目印としたとされています。
天守台近くの元大奥であった辺りの桜は結構咲いていました。

