明暦の大火についての8回目ですが、両国の回向院について書いてみます。
回向院は明暦の大火の被害者を供養するために建てられてお寺であることはかなり知られていることだと思います。
この回向院建立の提案をしたのは保科正之です。
正月18日19日と燃え続けた火事は、江戸市中の6割を燃え尽くしたといわれています。
死者は、いろいろな説がありますが、「むさしあぶみ」によれば10万人以上となっています。
なくなった人々の遺骸の多くは、江戸市中にそのままに放置されていました。
正月24日に保科正之は、2代将軍秀忠の命日であるため、将軍家綱の代わりに増上寺に代参しました。
この途上、市中に焼死体が多数積み重なっているのに驚きました。そして、市中各所を調べさせると、焼死体が放置されていることがわかりました。
そこで、保科正之は、死骸を一ヶ所に集めて埋葬したらどうかと井伊直孝・酒井忠勝・松平信綱等の幕閣に提案します。
幕閣に異論はなく、早速、死体を船で隅田川を越えた牛島に運び、そこに掘られた20間四方の大きな穴に埋葬されました。
その一方で、幕府は、増上寺の住職遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行うよう指示しました。
遵誉上人は3月26日から100人の僧侶を率いて盛大な供養を行いました。
また、遵誉上人は宗旨に限らず無縁仏の供養を行う寺として、諸宗山無縁寺回向院という名をつけました。
回向院には、現在も明暦大火の供養塔が建てられていて、東京都指定有形文化財となっています。
墨田区教育委員会の説明板には次のように書かれています。
明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。
もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。
総高3.0メートル、延宝3年(1657)頃建立された。願主は回向院第2世住持信誉貞存。
回向院は、こうした創建の由来から、以後も、火災、風水害、震災などで犠牲になった無縁仏が葬られるようになり、境内には、安政大地震、関東大震災、海難事故、囚人牢病死者などの供養塔も建てられています。


