先日の江戸楽アカデミーで、今年のお題の「江戸の大変~江戸の災害と復興~」のうち大火について、お題テキストのコピーに基づいて説明しました。
しかし、時間が少なくて十分説明しきれていない項目もありますので、そうした項目について、このブログを使用し説明していこうと思います。
お題のテキストに定火消について書いてあり、その中で、定火消屋敷が10カ所あり、その場所は次の通りだと書いてあります。
八重洲河岸・赤坂溜池・半蔵門外・御茶ノ水・駿河台・赤坂門外・飯田橋・小川町・四谷門外・市ヶ谷左内坂
テキストに、定火消屋敷10か所が記載されるとは正直思っていませんでしたので、意外な感じがしました。
定火消屋敷は、現在も有名な施設になっているところが多く、かつて、このブログで紹介したことがあります。
その記事を再掲すれば江戸検を受ける方の参考になるかもしれないと考え、再び掲載することにしました。
そこで、今日から、定火消屋敷について書いていきます。
その前段で、定火消とはどういう消防組織なのか、まず書いていきます。
定火消というのは、幕府の直轄消防組織で、旗本が担当していました。
定火消は、明暦の大火の翌年の万治元年(1658)9月に設置されました。
当初は、『江戸中定火之番』と呼ばれていたようですが、一般的には「定火消」と言われます。
この時、旗本4名が定火消役を命じられ、御茶ノ水、飯田町、市ヶ谷佐内坂、麹町半蔵門外に火消屋敷が設置されました。
そして、万治2年に2組、万治3年に2組、さらに寛文2年(1662)に2組に増加され、合計で10組となりました。
そして、元禄8年(1695)に、さらに5組増設され、合計で15組となりました。
しかし、宝永元年(1704)には、5組減らされ10組となりました。その後、幕末まで10組が維持されました。
そのため、定火消は10人火消とも呼ばれます。
上の写真は、以前、消防博物館に展示されていた定火消の装束です。(左が夏の装束、右が冬の装束です。)
なお、幕末になると、町火消が隆盛となり、定火消は次第に形骸化し、安政2年(1855)に8組、慶応2年(1866)4組となりました。
そして、慶応3年には、わずか一組128名となってしまいました。
次回は、定火消の組織等について書いていきます。

