今日は、半蔵御門外の定火消屋敷についてご案内します。
半蔵御門外の定火消屋敷は、半蔵門を出るとすぐの場所にありました。
現在は、「グランドアーク半蔵門」という近代的なホテルが建っています。
東京メトロ半蔵門線「半蔵門」駅1番出口から徒歩2分です。
国立劇場の北隣になります。
以前は、半蔵門会館という警察共済の建物があり、私も利用したことがありますが、1999年に建て替えられて、現在はホテルの運営は帝国ホテルがしています。
グランドアーク半蔵門の住所は千代田区隼町1番1号です。
隼町という町名は、徳川家康が関東に入国した頃、ここに鷹匠屋敷が設けられたためつけられた町名です。
右上の写真は、お堀端から撮ったものですが、反対側を見ると半蔵門があります。(右下写真)
半蔵門は、服部半蔵が守っていたからとか、服部半蔵の組下の伊賀同心が警護していたので、その名前があるというように服部半蔵との関係で説明されることが多くあります。
また、別には、山王祭に出る象の張りぼてが半分しか通らなかったから「半象門」だという説もあります。しかし、これは江戸っ子のユーモアのようです。
【安井息軒の屋敷跡】
半蔵門の交差点の北側に、「ふくおか会館」があります。これは会館内に福岡県東京事務所もありますが、ホテルとして利用できるようです。
この「ふくおか会館」のある場所に、幕末の大儒学者である安井息軒の屋敷がありました。
安井息軒は慶応元年(1865)ここに居を定め、西に富獄を望み、南に金杉あたりの海を眺めることができたので海獄楼と名付けたと言われています。
しかし、明治元年に海獄楼は類焼し、安井息軒は武蔵国足立郡領家村(現在の川口市領家)に移りました。
安井息軒は、日向国宮崎郡清武(現在の宮崎県宮崎市)で漢学者安井滄洲の次男として生まれました。幼少の頃天然痘に罹り、顔面の疱瘡痕で片目が潰れた容貌だったそうです。
しかし、学問に対する情熱は人一倍のものがあり、21歳で大坂に遊学し、兄の死により一旦故郷に帰った後、26歳で江戸に出て昌平坂学問所で古賀侗庵に学び、のち松崎慊堂(まつざきこうどう)に入門します。
昌平坂学問所では、日向生まれの田舎者で、痘痕があり片眼で背の低い息軒は、馬鹿にされました。
こうした時期に詠んだ歌が、向学の気概を詠んだ
「今は音を忍ぶが岡のほととぎす いつか雲井のよそに名乗らむ」 という歌です。
安井息軒は、28歳で藩主の侍講となり、翌年藩主のお伴をして帰国しました。
そして、29歳の時に、結婚しますが、これについては次のようなエピソードがあるそうです。
父滄洲は帰国した息軒に嫁を取ろうとしました。そこで、滄洲の夫人の里方の川添家の娘はどうかと考えました。
川添家には2人の娘がいましたが、姉の豊は十人並みの器量で明るい性格で、妹の佐代は控えめな性格だったが「岡の小町」と噂されるような美人でした。
年齢と容貌を考えて、滄洲は妹の佐代はもともと無理だと考えて姉の豊に人を立てて申し入れましたが、豊からは断られます。
しかし妹の佐代が姉の豊が断ったことを聞いて「貰ってくださるならわたくしは嫁にいきたい」と申し出ました。 この申し出は思いもよらなかったことです。この返事に滄洲は意外でしたが息子の息軒にとってはさらに意外でした。
このエピソードをクライマックスとして安井息軒とその妻佐代の一生を描いたのが、森鴎外の「安井夫人」です。
「鷗外の武士道小説」の中に収められていますが、短編小説で短時間で読めますのでご興味がありましたらどうぞお読みください。
さて、安井息軒は35歳の時に、藩主のお伴をして江戸に出た後、天保9年、39歳の時に家族と共に江戸へ下ります。
そして、私塾「三計塾」を開きます。
これは、安井息軒の「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」という「三計の教え」から名づけられた名前です。
この塾からは、谷千城、陸奥宗光を初めとした大勢の逸材が育っていきました。
そして、幕末・維新の混乱期を生き抜き、安井息軒は明治9年、77才で東京で没しました。
麹町の「海嶽楼」について、森鴎外は「安井夫人」の中で次のように書いています。
『住まいは65のとき下谷徒士町に移り、67歳のとき一時藩の上邸(かみやしき)に入って、麹町一丁目半蔵門外の濠端の家を買って移った。策士雲井龍雄と月見をした「海嶽楼」は、この家のニ階である。』

