定火消屋敷めぐりの第9回は、四谷御門内の定火消屋敷を紹介します。
*この記事は、2011年に書いた記事を、今年の江戸検のお題「江戸の大変」のため、再度掲載するものです。
そのため、掲載する写真は当時のものであり、一部の情報が古くなっていることもありますので、その点、ご了承いただいた上でお読みください。
四谷御門内の定火消屋敷は、現在は番町小学校になっています。
番町小学校は、JR市谷駅から徒歩7分、JR四ツ谷駅からも徒歩7分です。
番町小学校といえば、私たちの世代では、「番町、麹町、日比谷、東大」といわれ、番町小学校⇒麹町中学校⇒日比谷高校から東京大学へと進む有名進学校でした。
番町小学校は、明治3年6月に設立された小学校で日本の中で、もっとも古い学校の一つです。
最初は市ヶ谷八幡町の洞雲寺というお寺におかれたそうです。
明治4年12月4日に、文部省直轄の小学校となり、正式の小学校として開校式を行い、この日が創立記念日となっています。
2011年は創立140周年になることから、12月4日の挙行された創立140周年記念式典には皇太子様が臨席されました。
さて、2011年当時の番町小学校同窓会のHPに、定火消屋敷との関係を書いた部分がありました。(*現在は掲載されていないようです。)
(番町小学校は) 明治五年六月に、現在の番町小学校のある場所に移され、その場所にあった小幡藩の藩邸を一部改修して校舎として使用しました。ここには、定火消役(今の消防署)、火附盗賊御改役(今の警察署)などが置かれていたこともあります。この地域は江戸時代、番方の住む旗本武家屋敷町であったことから『番町』と呼ばれていました。
新たな学制によって、明治六年五月三日、第一大学区第三中学区の「第一番小学 番町学校」と名前を改めることになりました。新しい歩みを始めた学校は、これまで使用していた屋敷を取り壊し、本格的な校舎を建てることになりました。明治十年八月から工事が始まり、明治十一年二月二日に開校式が行われました。新しい校舎は、全体がH字形をした唐破風造玄関を持つ洋風校舎で、六百四十人も入れる広さになりました。当時としては、近代建築の最先端をいく建物でした。
同窓会の文章の中にも書かれていますが、元治元年の江戸切絵図を見ると、番町小学校の場所には定火消屋敷は見当たらず、火付盗賊改 戸田與左衛門 となっています。
さらに、消防博物館に掲示されていた切絵図では、火付盗賊改役の役宅の後の上野小幡藩松平家の屋敷になっていました。(右上写真)
これら幕末の切絵図からは、四谷御門内に定火消屋敷があったことが確認できません。
そこで、四谷御門外の定火消屋敷が幕末にはどうなったのか調べてみました。
宝永元年に10組となり、その後、長い間10組を維持していた定火消も、町火消の活躍もあって、幕末になると組数が減少していきます。
安政2年には、10組から8組に減らされています。さらに慶応2年には4組に減らされます。
安政2年に減らされたのが、四谷御門内と小川町の定火消です。
安政2年の武鑑と安政3年の武鑑を比較するとよくわかります。
さらに、「江戸城下変遷絵図集」という本に収録されている普請奉行が作成していた『御府内沿革図書』という書類を確認してみると天保9年の地図では「火消役屋敷」となっていますが、文久元年の地図では「松平摂津守」となっています。
つまり、四谷御門内の定火消屋敷は、安政2年に廃止された後、火付盗賊改の屋敷となったり、諸大名の屋敷へと持ち主が変わっていったようです。

