江戸の火消のうち、定火消については一応書き終わりました。
江戸検のお題テキスト「天下大変」を読んでみると、町火消についてかなり詳しく書かれています。
町火消を知るためには、テキストをしっかり読むことが大切だとは思います。
しかし、テキストはいくつかの参考文献を要約していることから、もとになっている参考文献には、もっと詳しく書かれている部分もあります。
そこで、そうした部分を中心に、参考文献をもとに補足説明していきたいと思います。
今日は町火消の誕生について書きます。
町火消の誕生は、享保5年(1720)のいろは47組の発足と考える人が多いと思いますが、町火消の誕生は、それより60年以上さかのぼります。
明暦の大火の翌年、万治元年(1658)8月7日.南伝馬町、桶町、鍛治町、疂町、大鋸町など23町が、それぞれ6人から17人ほどの人足を用意し合計167人の人足が協力して消火にあたるという自主的な火消組合をつくりました。
今までの火消は、江戸城や武家屋敷を守ることには熱心でも、市街地の火災には冷淡なことを、身にしみて感じていたからだそうです。
この23町の火消人足は、町名と印のついた袖なし羽織を着ていました。桶町は紺地に手桶の紋、柳町はしだれ柳、炭町は丸の中に竹だったそうです。
町々からは月行事や家持が付き添って人足を指図しました。
そして、取り決めごととして、次のようなことが決められていたと「江戸の火消」』(黒木喬著)に書いてあります。
・場合により家屋をこわすが文句をいってはならない。
・火事場では各町の人足が入り乱れるが、指図にそむいてはならない。そむいて暴力をふるわれても文句はいえない。
・喧嘩口論は禁止。鎮火後、月行事は火消人足の持札を改める。
・帰る者はことわって帰ること。
・不参加者から過料として銭一貫文を取りたてる。
・近所が火事のとき、消火に参加せず、道具などを持ち出した者は、家主であれば町奉行に訴え、店借人であれば町から追放する。
・町々では毎月、寄合をして店借人にかけつけ・消防を申し渡し、手形も取っておく。
・火事番は出火のさい、大声で町中をおこし、隣町にも連絡すること。
・町では桶や梯子を用意し、火事のときは月行事が持参する。
・中橋より北の火事には南橋町大鋸町河岸にご吊橋より南の火事には紺屋町炭町河岸通りに集合すること。もし大火になり大名火消が出動したときは、立ちのいて小路で防火に努めること など
23町の火消組合ができてから2か月後の万治元年10月28日に、町火消の誕生を告げるお触れが出されます。
「江戸の火消」(黒木喬著)では次のように現代語訳されています。
「近所が火事の場合、人足を集めていると時間がかかるので、火消役が出動する前に一人ずつでも火元にかけつけ、消防にあたること。消火に努力した町には褒美を与える。遠方の火事の場合はきまった場所に集まり火の粉を消す。町奉行所の与力・同心が指図する」
そして、集合場所は次のように定められました。
1、日本橋・中橋間の町
南からの出火には中橋通り
北からの出火には日本橋通り
2、日本橋・銀町南側間の町
南からの出火には日本橋舟町鞘町裏河岸通り
北からの出火には銀町土手通り
3、銀町土手・連雀町柳原町間の町
南からの出火には銀町土手
北からの出火には連雀町・柳原町通
4、神田旅寵町・湯島本郷・佐久間町通り・浅草旅寵町までの町
浅草橋・佐久間町・筋違橋通り
5、飯田町・市谷・船河原町・麹町・四谷伝馬町・赤坂伝馬町・本赤坂の町
はじめから火元。
1から3までは外堀の内側(広い意味での曲輪内)の町
4はその外側です。
5はおもに武家地で、麹町半蔵門外・飯田町・御茶の水・市谷佐内坂には、この年、定火消が置かれました。
これを「江戸町人の研究」第5巻で池上彰彦氏は「濫觴(らんしょう)」と書いていますし、「江戸の大変」には、これが「町火消のおこり」だと書いてあります。

