従来の町火消が、大きく変わるのは徳川吉宗が8代将軍に就任した享保年間になってです。
享保5年(1721)にいろは47組が発足することになるわけですが、いろは47組発足には前段階があります。
享保3年の町火消の組織化について、お題テキスト「天下大変」にもそのことが書かれていますが、「江戸の火消」(黒木喬著)には、より詳しく書かれていますので、「江戸の火消」に基づいて説明します。
享保2年(1717)に南町奉行に任命された大岡越前守忠相が、享保3年(1718)9月、町名主に対して防火の策についての諮問をしました。
大岡越前守忠相の諮問に答えて、名主は次のような答申をしたと「江戸の火事」に書いてあります。
町では間数を見はからって四斗樽に水を入れておきます。
表店・裏店の者には家主から水寵を渡しておいて、町内はもちろん隣町の出火の場合もかけつけるように致します。
私どもも火の用心の巡回をしますが、万一失火があり、町内の人数では防ぎかねる場合は、四、五町ぐらいで、あらかじめ申しあわせておき、報知の鳴物を作り、かけつけるようにします。(*ここの部分がテキストに書かれています)
かけつけ人数は当番の札で一町に5人ときめ、ただちに出向きます。
風の日は当番五人に月行事がくわわって町内をまわり、火の用心を申しつけます。
火事場に火消役のご出馬があれば、以前からじゃまになるとおしかりを受けていますので、町人はすぐ屋根からおります
これは、奉行所から一方的に命令するよりも、町名主からの答申を得て、町火消の組織化について町人から自主的に協力をさせた方がよいと考えたようです。
その答申を受けて、享保3年10月、各町の名主に次の7箇条のことを言い渡しました。
お題テキストには、この一部が載っています。
一、町方の出火の場合、町人が消しているところに定火消がきても、そのまま町人に消させるから争論などしないように。町奉行所の与力・同心が立ちあう。
一、風がはげしく町方で出火の場合、風上二町・風脇左右二町ずつ計六町、一町につき30人ずつかけつけて消すこと。小さな家屋は引き倒して消火する。ありあわせの梯子・鳶口・斧・細引などは手近に保管し、出火のさいに持ち出すこと。新しく道具を作る必要はない。風がはげしい日は商売を休み在宅しているのだからかけつけが遅れたら吟味の上、きびしく申しつける。
一、風がない場合は商売に出る者もいるから30人そろわなくともよい。しかし、5、6人以上も減っていたら、吟味の上、きびしく申しつける。
一、火が消えかかっても火消衆がきたら、その人数も屋根にあげて、一緒に消火すること。争いはせず消防第一と心がけ、何かあったら後で奉行所に訴えること。
一、町方が掛けた梯子を火消衆がのぼり・おりしても文句をいうな。急で梯子のない場合、火消衆が掛けた梯子を町方がのぼり・おりすることもある。この件については火消役と話しあいがついている。
一、水の于や井戸が不足している場所については火消役と話しあっているが、争わずにお互いに汲むようにすること。
一、世話役として名主・月行事はかならずくること。がまんできないことがあっても火事場では争わないこと。
前期の通知の2か月後の享保3年12月に次のような触が出されました。
一、火事のさいの組合がきまった。地図に朱引したとおりである。
火元へは規定どおり6町の人数は一町30人を下まわることなく(30人以上は自由)出動させること。それ以外の町は30人以上は出さぬこと。
風下で組合以外の町は人足を出さず、その町のなかで風筋の悪いところに集まって防ぐこと。
組合のほか火元に集まることは無用である。
一、跡火消は火元より二、三町(約218~327メートル)手前に通行の邪魔にならぬよう集合して、役人の指示を受けること。
これによって、実質的な火消組合が発足し活動を始めました。
しかし、問題点もあったため、享保5年に火消組合の再編成が行われます。
これが「いろは四十七組」の発足ですが、これについては次回書きます。

