享保5年に発足した「いろは四十七組」の過去10年間の活動を反省して、町奉行所は、火消組合を享保15年に、一番組から十番組までの大組に再編成しました。
そして、火消人足の数を一町30人から15人に半減しました。
火消人足の半減は、表向きは土蔵造りや塗家が増えたことが理由となっていますが、火消人足を抱えておくための費用負担の問題もあったように思われます。
また、火消の活動も変更されました。
火元の風下にあたる町の火消には飛火に備えて白身の町を守らせ、代わりに大組内の風上、風脇の町々から消火にあたる人員を集めるというもので、これにより、多くの人数を火元の消火にあたらせることが可能となりました。
また、同じ時期に、本所・深川地区の16組も北・中・南の三つの大組に編成されました。
この10組の大組も、元文3年(1738)には、四は死に、七は質に通じると嫌われたため、四番組は五番組に、七番組は六番組に合併され、大組は八組となりました。
四がなくなるのはわかりますが、七がなくなって九が残るのが現在の感覚とはちょっと違うように気が個人的にはしますが、縁起をかつぎたいという江戸の町火消人足の気持ちも理解できます。
『江戸三火消図鑑』(岩崎美術社刊)には大組の担当地域が詳しく書かれています。
それを私なりにわかりやすいようにまとめてみると次のようになります。
一番組 日本橋北から神田川南まで、東側は隅田川まで
い・は・に・よ・万 の五組
二番組 日本橋南から浜松町まで、東は隅田川まで
ろ・め・も・せ・す・百・千 の七組
三番組 芝金杉から高輪、白金、目黒
て・あ・さ・き・ゆ・み の六組
五番組 麹町、四谷、赤坂、青山、広尾
く・や・ま・け・ふ・こ・え・し・ゑ の九組
六番組 牛込、小石川、市ヶ谷、早稲田
な・む・う・ゐ・の・お の六組
八番組 浅草門外 外神田、湯島、本郷、下谷、池の端
は・わ・か・た の四組
九番組
駒込・巣鴨・千駄木・谷中
れ・そ・つ・ね の四組
十番組 浅草、今戸、山谷、三ノ輪
と・ち・り・ね・る・を の六組

